ダービーのお話〜その国内外の歴史とは〜

日本ダービー。
競馬ファンのみならず多くの注目を集め、五大クラシック競走の中でも最高の権威を誇り、3歳馬の頂点を決めるレースです。今回はその日本ダービーがどのようなレースか、歴史を追って紹介します。


そもそもダービーは、日本でオリジナルに創設されたレースではありません。モデルとなったのは近代競馬発祥の地、イギリスのダービーステークス・通称エプソムダービーです。

では、そのダービーステークスがどういった経緯で誕生したのかと言いますと、だいたい以下のような流れです。

昔は競馬というともっと年齢を重ねた馬が、もっと長い距離で優劣を競うものでした。ところが能力が完成された馬同士では力関係がはっきりしすぎてしまい、賭けの対象としては面白くありません。

そこでまず馬齢を3歳に限定して、秋口にある程度距離の短い(当時の感覚で)レースをさせたらどうかいう提案でセントレジャーステークス(日本における菊花賞のモデル)が出来ました。

すると波乱が起きて面白いというので、3歳のもっと早い時期に、もっと短い距離で夏前に牝馬同士を走らせてはどうかという話になり、オークスステークス(日本のオークスのモデル)が創設されて好評を博し、翌年に3歳馬牡牝が出走資格をもつダービーステークスが誕生したというわけです。

舞台は二度の世界大戦期を除き、世界一起伏の激しいエプソムダウンズ競馬場。最初の5回は1マイル(約1609m)で行われ、のち距離が延長され、現在は同競馬場の1マイル4ハロン10ヤード(約2423m)で施行されています。第1回開催は1780年、ドーバー海峡を隔てた隣国フランスはルイ16世の治世下にあり革命の足音が近づく頃、大西洋の向こう側ではアメリカ合衆国が独立を目前に控え、日本はまだ江戸時代中期で田沼意次が幕府の権勢を振るっていた時代です。

さて、その日本におけるダービーですが、明治維新以後に洋式の近代競馬が行われてすぐに創設されたわけではありません。

それどころか国内の競馬開催を統括する組織もありませんでした。

当時は各地に点在する独立したジョッキークラブ(競馬倶楽部)が各々レースを運営していた状態だったのです。

はじめの頃はそれでもある程度の人気がありましたが、馬券の発売が禁止されるなどして競馬熱が冷え込み、いちど業界全体が下火になってしまいました。

そこで危機感を抱いた関係者から、我が国でもイギリスのダービーステークスに相当するレースを創設すべしとの声があがり、馬産の復興と競馬熱の再燃を目的に東京優駿大競走が創設されました。日本ダービーの誕生です。

第1回は本家イギリスから遅れること約1世紀半後の1932年でした。距離は2400mと今に同じ、ただし最初の2回のみ当時存在していた目黒競馬場で開催し、第3回から現在の府中東京競馬場へ移転し以後は同地で行われています。

また創設時は国内に複数存在していた競馬倶楽部の一つである東京競馬倶楽部が主催していましたが、日本ダービーから遅れること4年後に全国の競馬開催を統括する日本競馬会が設立され同競走の主催もこれに移りました。

日本競馬会は終戦後に解散し、一時的に国営競馬が運営する時期もありましたが、1954年に日本中央競馬会が発足し翌年から同競走の主催となり、さらに名称を東京優駿と改称し今日に至っています。つまり日本ダービーは通称なのです。

なお、同競走は2年間だけ開催が中止された時期がありました。言うまでもなく太平洋戦争期に戦災に見舞われた1945年と翌1946年です。前年の優勝馬カイソウも、戦火の中で行方不明になってしまいました。

以降は毎年、欠かさずに行われています。3歳牡牝が出走条件のため、過去の歴史を振り返ると、どちらかと言えば馬よりも騎手や調教師に照点の当たることが多いようです。

ただ、ダービーの最中に日本競馬界にとって大きな出来事が起こった年がありますので、最後にそれを紹介して終わりにします。

1988年、第57回日本ダービー。この年はやや混戦模様と言われていました。

1番人気は皐月賞3着ながら高い能力が評価されていたメジロライアン。鞍上は当時テビュー3年目の横山典弘騎手。2番人気は皐月賞馬ハクタイセイ。鞍上は武豊騎手。当時デビュー2年目でしたが前年に新人勝利記録を塗り替えるなど既に実力を備えていました。3番人気は2歳(昔の呼称は3歳)王者アイネスフウジン。皐月賞は2着でしたが近走の連敗と逃げ脚質が直線の長い東京では不利と予想されていました。鞍上はベテランではありながら諸々の事情により騎乗機会を減らしていた中野栄治騎手。

ところがレースが始まると、アイネスフウジンが最内の最短距離を通りつつ道中12秒台中盤の正確なラップを刻み、直線でもわずかに内を開け後続を封じる絶妙の走りで逃げ切り勝ちを収めます。

事件はここから。

過去には観衆は勝利した人馬を淡々と見送るだけでしたが、このとき、競馬場内から「ナカノ、ナカノ」と騎手の名を連呼し勝者を称えるナカノ・コールが自然に湧きおこったのです。

おそらく1番人気、2番人気の鞍上と比べ勢いに差がある勝利ジョッキーが、一世一代とも呼べる渾身の騎乗を見せたことへの敬意が大きかったのでしょう。

以前は競馬といえばかなりの程度ギャンブルとして見られ、いわば影のあるイメージを強く持たれていました。それが他のスポーツと同じように勝者をコールで称えるようになったのです。

もちろんそこに至るまでに関係者の努力もあったわけですが、このナカノ・コールは競馬が単なるギャンブルだけではないという、世間一般に新しい受けとめられ方をされるようになった象徴的な出来事でした。

もちろん記事を執筆している私はリアルタイムで体感したわけではありませんが、競馬評論家の大川慶次郎氏は馬券を外しながらも感動に涙し、当時92歳だった第2回日本ダービー勝利騎手(勝ち馬カブトヤマ)の大久保房松氏などは中野騎手を大変に羨ましがったそうで、これらのことから影響の大きさが窺えます。今日、私たちがスポーツ的な感覚で競馬に接することができるのはこの出来事と無関係ではないでしょうし、何よりGⅠレース後に勝者をコールで称える習慣は、現在も続いているからです。

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