凱旋門賞の歴史

 現在、欧州のみならず世界の芝クラシックディスタンスの頂点を決める凱旋門賞。近年は日本からかなりの頻度で参戦する馬が現れていますが、どのようなレースなのでしょうか。今回はその歴史をご紹介します。

1 国際競走を目指しての創設

 フランスでは19世紀半ばから、すでに欧州3歳王者を決めるレースとしてパリ大賞典が行われていました。しかし20世紀に入ってしばらく経っても、古馬も含めた欧州王者を決めるレースは国内にありませんでした。そこで創設されたのが凱旋門賞です。第1回は1920年。開催はロンシャン競馬場、距離2400mは今と同じ条件です。ただ初めの頃は賞金額が思うように集まらず安かったことと、当時は長距離を勝つ馬が最強と考えられていたがために、3000mで施行されていたパリ大賞典こそその役割を果たしていたものの、古馬の王者を決定するレースは6月にイギリスのアスコット競馬場芝20fで行われるアスコットゴールドCとされており、有力馬はなかなか集まりませんでした。

2 マルセル・ブサックとコロネーション

 ところが、あるときその状況が一変します。当時、フランスの競馬を施行していた奨励協会の委員にも就任したマルセル・ブサックの登場です。このブサック氏、本業は画商でありながら競馬にのめり込み、牧場まで所有し自分で様々な配合を考え次々と活躍馬を生み出していました。そしてそれらの中からコロネーションという一頭の牝馬が誕生します。コロネーションは素晴らしい身体能力を備えていましたが、体調が不安定で尋常でないほど激しい気性の持ち主でもありました。原因はインブリードです。父母馬の父に同じ馬をもつ極度の近親交配馬であるため、その恩恵と弊害の両方を大きく受けてしまったのです。その証拠に2歳時はデビューから3連勝しながら続く2戦は敗れ、地元の仏1000ギニーは同着1着、初遠征となった英オークスは暴走して2着、愛オークスも2着。春のクラシック戦線は一冠に終わりましたが、馬主のブサック氏は愛馬の能力に惚れ込んでおり、この結果に納得いきません。
 そこで当時はまだ賞金額の少なかった凱旋門賞に目をつけ(創設時からは増えていましたが不十分でした)、賞金額を約5倍に増やして有力馬を集めることにしたのです。シーズン途中で賞金額を倍増させるなど現在では考えられない話ですが、各方面へのはたらきかけもあり、目論見は成功しました。同年の仏2000ギニー、ジャック・ル・マロワ賞の勝ち馬アムールドレイク、やはり同年のパリ大賞典、仏オークス、ヴェルメイユ賞馬バゲーラ、仏ダービー馬グッドラック、サンクルー大賞馬メディウム、愛2000ギニー、愛セントレジャーの愛二冠馬ボーサブリュー、エクリプスS優勝馬ジェダーらが集結したのです。本番はコロネーションが彼らに4馬身の差をつけて勝利し、見事に欧州の頂点に立ち、かくして凱旋門賞は欧州最高峰のレースとなるべく第二の誕生を果たしました。時に1949年。ちなみにキングジョージが1951年、ワシントンDC国際(現在のBCターフに近い位置づけ)が1952年、有馬記念が1956年に創設されていますから、まだ日本馬が今日のように海外遠征を行う時代ではありませんが、芝クラシックディスタンスの主要路線はこの時期に現在の姿へ近づいていることになります。

3 イタリアのリボー、フランスのシーバード

 続く1950年代から60年代にかけて、凱旋門賞はある2頭の競走馬によっていっそう価値を高めていったとされます。1頭はイタリアのリボーです。同馬は本国でクラシック未登録ながら3歳時に凱旋門賞を制し、1956年の4歳春にはイギリスのキングジョージに優勝、15戦全勝のまま連覇に挑みました。この年は地元からはパリ大賞典のヴァテル、リュパン賞のタネルコ、アイルランドからは2頭の愛ダービー馬タルゴとザラズーストラ、イギリスからは英オークス馬シカレルの他、大西洋を渡りアメリカからワシントンDC国際の勝ち馬フィッシャーマンらが参戦し欧州内外から有力馬が集まったのですが、本番はリボーが先行集団から抜け出し直線でほとんど追われることなく後続に6馬身差をつけ圧勝。連勝無敗記録を16に延ばして引退しました。
 もう1頭は1965年、地元フランスから現れた不出世の名馬シーバードです。同馬は2歳時に一度だけ2着の敗戦を喫しましたが、リュパン賞を叩いたあとイギリスへ遠征し英ダービーを、本国に戻り古馬と初対戦となったサンクルー大賞典をいずれも楽に連勝していました。当然ながら本命でしたが、この年は仏ダービー、パリ大賞典、ロワイヤルオーク賞を含む5戦全勝のリライアンス、仏オークス馬ブラブラ、愛ダービーとキングジョージに勝利したメドウコート、コロネーションCの優勝馬オンシジウムのみならず、欧州圏外からソビエト三冠馬アニリン、アメリカのプリークネスS勝ち馬トムロルフ(ケンタッキーダービーとベルモントSでも2着)など史上最も豪華と評されるほど各国から強豪が集まっていたのです。しかし本番ではシーバードがリライアンスを直線で突き放し、6馬身差で楽勝。有終の美を飾りました。
 2頭はいずれも英タイムフォーム誌のレーティングで前者は142、後者は145の受け、各々の時代で最高の評価を下されました。レースの価値を高める上でこれは大きかったように思われます。なぜならこの凱旋門賞で高いパフォーマンスを披露すれば、対戦相手が豪華なだけに、高い賞金だけでなく競走馬としても繁殖としても高い評価を受けることが見込めるからです。こういった流れを振り返ると、凱旋門賞の創設当初の理念は時間を経てこの頃に実現していったように思われます。同時にレース創設時に唱えられる理念も、現実に出走馬が伴わなければさして意味を成さなくなることが見て取れます。北米における芝馬王者決定戦の地位をBCターフに奪われ廃止されたワシントンDC国際や、逆に当初はさして重きを置かれていなかったケンタッキーダービーの三冠昇格、またオールウェザー後期のドバイWCなどがその典型的な例でしょう。

4 ニジンスキーの敗戦とミルリーフの勝利

 こうしてかなりの頻度で欧州中から強豪が集まるようになり、おおよそ現在の地位を占めるようになりました。さらにその評価が固まったと言われる事件が起こります。1970年、ニジンスキーが無敗で英国クラシック三冠を制した三週間後のことです。凱旋門賞に挑戦した同馬は、ゴール直線で脚が鈍り2着に敗れてしまいました。敗因は幾つか取り沙汰されましたが、そのうちの一つに挙げられたのが厳しいローテーションです。真偽のほどは別にして、三冠最終戦であるセントレジャーの疲労が抜けていなかったのではないかと囁かれたのです。この時点で凱旋門賞創設時と比べ長距離レースの評価は相当に低下しており、英国クラシック三冠挑戦自体が35年ぶり、そもそもニジンスキーの管理調教師は回避を希望したにも関わらず、セントレジャーを開催するドンカスター競馬場の要請を馬主が受けた経緯もあり、結果としてそれが見事に仇となったと見られたのでした。
 さらに追いうちをかけるように、翌年、同じイギリスで名馬ミルリーフが快進撃をはじめます。2000ギニーで2着に敗れた後、英ダービー、エクリプスS、キングジョージと3連勝。すでに三冠制覇に挑戦する資格はなかったこともあり、そこから休養を取って凱旋門賞に直行し3馬身差のレコードで勝利したのです。これが決定打となった、とまことしやかに語られるのも無理はないのかも知れません。以前は英ダービー馬タルヤーや愛ダービー馬バリモス、ラグーサなど3歳時は三冠路線へ優先して出走する一流馬もいたのですが、以降は勝利してもさほど価値の高くないセントレジャーへ向かう馬がますます少なくなり、それよりは賞金の高く好走した場合に評価もされる凱旋門賞へ、斤量面で有利な3歳のうちから挑戦する流れが強まっていったのです(ただし牝馬はこの限りではありません)。その後、1979年に3100mのロワイヤルオーク賞が、1983年に14fの愛セントレジャーが古馬に開放され、1987年にパリ大賞典が2000mに短縮されたのもこれと無関係ではないでしょう。あとは欧州でメインとなる長距離レースはアスコットゴールドCくらいですから、欧州でクラシック三冠の形骸化とともに長距離の価値の低下に拍車がかかったのは、凱旋門賞においてこの2頭が明暗を分けたのが少なくとも一因にはなったと考えられます。顧みれば、それまでレベルの高い古馬の2400m戦がなかったところに凱旋門賞が価値を浮上させたわけです。相対的に芝のクラシックディスタンスの評価が高まっていったのは創造に難くありません。もしくは芝競馬の中心が同カテゴリに移った象徴的な出来事とも言えるでしょう。

5 芝競馬の頂点へ

 そして時代は流れ、中距離やマイルなどより距離の短いカテゴリのレース、同時にそれらで活躍する馬も高い評価を受けるようになりましたが、凱旋門賞が最高峰の地位を占めていることに変わりはありません。カルティエ賞が施行されてから25年間のうち、凱旋門賞の優勝馬からは年度代表馬に9頭、最優秀3歳牡馬に6頭、最優秀3歳牝馬に1頭が選ばれています(重複は除く)。年度代表馬だけでも3分の1以上、主要タイトルホルダーとなると実に5分の3以上です。また近年の動向では2008年にメインスポンサーを従来のルシアン・バリエールからカタール・レーシングに変え、総賞金額も右肩上がりに増額し2016年には530万ユーロに到達、オーストラリアのメルボルンCを抜き、芝レースでは世界最高額の賞金を用意するなど出走馬の充実に努めています。当面はその年の芝競馬の頂点を決めるレースとして君臨することでしょう。
 最後に、欧州圏外からの主な出走馬については、前述のアニリンが5着、トムロルフが6着の他、1977年にニュージーランドのバルメリノが2着、1986年にチリのマリアフマタが15着、1994年にブラジルのマッチベターが14着。いずれも優勝には至っていません。日本調教馬はご存じのとおり、1999年のエルコンドルパサーを皮切りに2着が4回。頻度の違いもありますが、20世紀の終わり頃の初挑戦にも関わらず抜群の成績を残しています。欧州圏外出走馬による凱旋門賞制覇という史上初の快挙は、果たして日本馬によって達成されるのでしょうか。或いは日本の競馬界にとって長年の悲願である凱旋門賞制覇は、いつ成し遂げられるのでしょうか。私個人としては、一日でも早くそれが現実のものとなることを願っています。

文・シングーYK