汝の貧乏を、一本のガランスにて塗り隠せ ~1997年 東京優駿に寄せて

18頭中の、7番人気。

直前でシルクライトニングが発走除外になったため最終的には6番人気となったが、それが1997年の日本ダービーにおいて、皐月賞馬・サニーブライアンへファンが下した評価だった。

皐月賞を制した愛馬への評価を見て、当時36歳だった大西直宏騎手はどんな想いでダービーを迎えたのだろう。

そしてどんな意思を持って、あの日18万人の大観衆が凝視する正面スタンド前の発走から、1コーナーに向かって駆けていったのだろう。

日本ダービー。

近代競馬発祥の地・英国で今から230年以上も前の1780年から行われてきた「ダービーステークス」を範として、1932年に創設された。

現在の日本においてはクラシック三冠の第2戦にして3歳馬の頂点を決めるレースであり、生産者、騎手、調教師、馬主……競馬に関わる全ての者が、一度はダービーを勝つ栄誉に浴してみたいと願うレースでもある。

出走は3歳のサラブレッドに限られるため、一生に一度しか出走することが叶わない。

日本で一年間に生を受けるサラブレッド約7000頭のうち、日本ダービーに出走できるのは僅かに18頭。

そのため、

「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になるより難しい」

という英国の有名な格言が現在でも伝わっている。

それが、この競馬の祭典である。


そんな3歳サラブレッドの頂点を決めるレースに、サニーブライアンは文字通り駒を進める。鞍上は、デビューから9戦全ての手綱を取ってきた大西騎手。

 

デビューは10月の東京だった。

3番人気ながら逃げ切り勝ちしたものの、そこから4戦は5着、7着、5着、2着と、もどかしいレースが続いた。

しかし格上挑戦のオープン特別・ジュニアカップで再び逃げ切り勝ちを収め、弥生賞3着、若葉ステークス4着を挟んで皐月賞に挑んだ。

そこでは出走間隔を詰めたトライアルの連敗が嫌われたのか、単勝11番人気という低評価だった。

レースでは大外18番枠から得意の逃げを打ち、道中ハナを譲るも3コーナーから仕掛けて先頭に立ったまま押し切り、大金星を挙げる。

 

「ノーマークで展開が向いた」

「有力馬が後方で牽制しあってしまった」

「一発屋、フロックだろう」

 

驚きの皐月賞の後、そんな空気感があった。

鞍上の大西騎手がリーディング上位の騎手でなかったことも、それに輪をかけたのかもしれない。

大西記事はデビューから毎年10勝前後の成績を積み重ねてきたが、重賞勝ちはアラブ大賞典の1勝のみ。

そしてサニーブライアンの皐月賞での勝利が、何とこの年の大西騎手の2勝目という、皐月賞ジョッキーとしては稀に見るケースだった。

そんなコンビが皐月賞を勝つのだから、競馬は面白い。

 

そして迎えた1997年6月1日。

第64回日本ダービーのファンファーレが鳴る。

 

この年の春、祝福された大外18番枠からスタートしたサニーブライアンと大西騎手は、戦前から宣言していた通り、逃げるべく矢のように1コーナーへ向かう。

競り合う可能性のあった同型のサイレンススズカは、上村騎手が2、3番手あたりでなだめ、無理には行かせない。

1コーナーに入るあたりで、隊列はほぼ決まった。

2コーナーを回って向こう正面に入っても淡々とした流れは変わらず、鞍上はペースを落とし1ハロン12秒台後半の緩いラップを刻んでいく。

サニーブライアンは十分に余力を残したまま、4コーナーを回り勝負の直線に入る。

満を持して追い出す大西騎手。

後続を、引き離す。

残り200mの標識を通過して大きくリードを取ったサニーブライアンに、道中最後方にいたシルクジャスティスが、大外から追い込んでくる。

しかし、最後までサニーブライアンの脚は残っていた。

シルクジャスティスを1馬身抑えたところが、栄光の日本ダービーのゴール板だった。

 

「これはもう、フロックでも、何でもない!二冠達成!」

 

フジテレビの三宅正治アナウンサーの名実況を生んだ、歴史的逃走劇。

生産者は浦河町の村下ファーム。

サニーブライアンが初めての重賞勝ち馬。

馬主は宮崎守保氏。

当時、サニーブライアンが唯一の所有馬だった。

そしてリーディング上位ではなかった、調教師と騎手。

そんな「チーム・サニー」が演じた、忘れ得ぬ私の青春真っ只中の1997年日本ダービー。


さて、あのおとぎ話のようなダービーから、もうはや20年余りが過ぎた。

大西騎手はすでに鞭を置き、サニーブライアンはダービーの後に故障を発症して引退。

種牡馬となったのちに2011年に鬼籍に入った。

私はといえば不惑も近くなったのに、まだまだ惑うことばかり。

けれども惑うことがあると、私は少し強い酒を入れてあのダービーの動画を見返す。

あの年、なかなか結果が出ていなかった大西騎手は、どんな想いであの日18万人の大観衆を前に、1コーナーへ向かって逃げていったのだろう。

あの後ろを振り返らない美しき逃走は、明治・大正期に生きた夭折の天才画家・村山槐多の詩を思い起こさせる。

 ためらふな、恥ちるな

 まつすぐにゆけ

 汝のガランスのチユーブをとつて

 汝のパレツトに直角に突き出し

 まつすぐにしぼれ

 そのガランスをまつすぐに塗れ

 生のみに活々と塗れ

 一本のガランスをつくせよ

 空もガランスに塗れ

 木もガランスに塗れ

 草もガランスにかけ

 魔羅をもガランスにて描き奉れ

 神をもガランスにて描き奉れ

 ためらふな、恥ぢるな

 まつすぐにゆけ

 汝の貧乏を

 一本のガランスにて塗り隠せ

  村山槐多「一本のガランス」

 

「貧乏」とは自らの劣等コンプレックスや周囲の評価の象徴。

「ガランス」とは茜色の絵の具を指し、槐多はその描く絵に好んでこの色を使った。

槐多はその絵具の色に、自らの「意思」と「才能」を重ね合わせていたのではないか。

「貧乏」、即ち劣等コンプレックスや周りの評価は、魔物だ。

気にしだすとキリがなくなり、直ぐに自分を見失う。

 

誰しもがそうだ。

──けれども。

「一本のガランス」、つまり腹を括った自らの「才能」と「意思」で、それを「塗り隠せ」と槐多は言っているのではないか。

そう、それはあの日の勝利ジョッキーインタビューで

「評価はどうでもよかった。1番人気はいらないから、1着だけ欲しいと思っていました」

という「意思」を吐露していた、口下手だが武骨で愚直な大西騎手と同じように。

酔いに任せてそんなことを妄想しながらあの日本ダービーを見返しては、私はサニーブライアンと大西騎手に心の中でエールを送る。

 

そうだ、

ためらうな、サニー。

恥じるな、大西。

まっすぐ行け。

己が才能を信じ、そのまま逃げろ。

コンプレックスも外野の評価も振り切って、

そのまま先頭を、駆け抜けろ。

 

同時にそれは、惑いながら生きる私自身へのエールなのかもしれない。


第85回 東京優駿。

東京競馬場・芝2400m。

5月27日、15時40分発走。

汝の貧乏を、一本のガランスにて塗り隠せ。