その葛藤に、用がある。 ~2001年 宝塚記念に寄せて

宝塚記念には、不思議な魅力がある。


ダービーも終わり、新馬戦とローカル競馬へと心が切り替わる、その前のエアポケットのような施行時期。まるでその年の春競馬の置き土産のようで、私の心を躍らせてくれる。


梅雨空の下で渋ることの多い馬場状態。

阪神・内回りというクセのあるコース。

短い直線と、2,200mという非根幹距離。


梅雨時期の仁川を彩るグランプリは、いつもと違うGⅠレースを見せてくれる。

そんな「いつもと違う」記憶に残るレースとなった21世紀最初の宝塚記念に寄せて、少し綴ってみたい。

初勝利を挙げたのは、こちらの方が先だった。

1999年1月16日、京都5レース。

4歳新馬戦、ダート1,800m。

その若駒は、スタートで大きく出遅れたものの、向こう正面過ぎから捲り気味に進出し4コーナーを回って先頭に立つ。

そのまま直線を押し切り、デビュー2戦目にして初勝利を挙げた。


メイショウドトウ。

 

調教師は安田伊佐氏、鞍上はその実子である安田康彦騎手であった。

その日安田騎手は高熱を出しながらも、メイショウドトウの出走するこのレースだけに騎乗した。

天才肌の騎乗を見せる安田騎手こそ、この若駒の才能を感じていたのかもしれない。

父は欧州のマイル戦線で活躍したBigstone。

母の父は1978年の米国の三冠馬・Affirmed。

オーナーの松本好雄氏が、アイルランドから比較的安価で輸入したと伝えられる。


冒頭で「こちらの方が先」と述べたのは、のちにメイショウドトウの不倶戴天のライバルとなる若駒もまた、この日の京都2レースに出走して4着に敗れていた。


テイエムオペラオー。


岩元市三調教師、騎手は和田竜二騎手。

父は凱旋門賞馬・オペラハウス。

母の父もまた欧州中距離の名馬を輩出してきたBlushing Groomという、コテコテの重厚な欧州血統だった。

オーナーの竹園正繼氏がセリで1,050万円で落札した、いわゆる〇市馬であった。


この日初めて同じ競馬場で交錯した、2頭の優駿。

同世代の2頭の優駿の紡ぐ物語は、ここから始まった。

 

その日から3か月後、1999年4月18日。

メイショウドトウは、中京競馬8レース・ダート1,700mのかいどう賞で2勝目を挙げた。

 

一方のテイエムオペラオーは、同じ日の中山競馬場のメインレース・皐月賞を5番人気で制していた。2月に初勝利を挙げてから、あれよあれよという間の4連勝。クラシック登録をしておらず、追加登録料を払っての皐月賞出走であった。


900万下のダート条件馬と、世代最初の牡馬クラシックホース。

同じ京都競馬場を走った1月から、まるで大河の支流のように2頭の足跡は大きく分かれていた。


その後テイエムオペラオーは残るクラシックの日本ダービーと菊花賞で、ともに三強と呼ばれたアドマイヤベガとナリタトップロードとともに名勝負を演じる。


メイショウドトウはというと、900万条件で4戦足踏みをしたものの、10月・11月には2連勝でオープン入りを果たした。

 

そして、1999年12月26日。

年の暮れ、メイショウドトウは阪神競馬場にいた。

初めて挑戦したオープン特別の六甲ステークスで1番人気を背負うも、11着に惨敗。

その頃、テイエムオペラオーは中山競馬場にいた。

年末のグランプリ・有馬記念で、強豪古馬の2頭グラスワンダーとスペシャルウィークのハナ差決着に食い下がり、僅差の3着に入る快走を見せた。

史上最強世代と謳われた名馬2頭からバトンを受け取ったテイエムオペラオーと、オープンの壁に跳ね返されたメイショウドトウ。

彼らの間には、まだ大きな隔たりがあった。

 


──年が明けて、2000年。

京都記念から始動したテイエムオペラオーは、阪神大賞典、天皇賞・春と3連勝。

伝説の2頭から受け取ったバトンをしっかりと握りしめ、自らの覇道を歩み始める。

 

メイショウドトウは持ち前の先行力で好位を確保する競馬を身につけたことで、ようやくその才能を本格的に開花させる。

3月のGⅢ・中京記念で重賞初勝利を飾ると、勢いそのままで5月には強豪の揃ったGⅡ・金鯱賞を快勝するまでに。


──そして2000年6月25日。

京都競馬場での初めての邂逅から1年半。

大きく分かれていた2頭の優駿の足跡は、グランプリ・宝塚記念で再び合流する。


両雄の初めての激突がグランプリという大舞台となったこのレースでは、先行するメイショウドトウをテイエムオペラオーが僅差で差し切って凱歌を挙げた。

ここから、ミレニアムの古馬王道路線はすべてがこの2頭の激突で彩られることとなる。

 

10月29日、天皇賞・秋。

テイエムオペラオー 1着、メイショウドトウ 2着。

11月26日、ジャパンカップ。

テイエムオペラオー 1着、メイショウドトウ 2着。
12月24日、有馬記念。

テイエムオペラオー 1着、メイショウドトウ 2着。

 

テイエムオペラオーは、年間8戦8勝、うちGⅠ・5勝という前人未到の古馬GⅠ戦線グランドスラムを達成。

メイショウドトウが敗れた4戦の着差は、クビ差、2・1/2馬身差、クビ差、そしてハナ差だった。

届きそうで、届かない、GⅠの頂点。

ファンの間でも、しきりに話題にのぼるようになった。

いつも2着のメイショウドトウ、と。

21世紀に変わって、2001年。

 

4月29日、天皇賞・春。

テイエムオペラオー 1着、メイショウドトウ 半馬身差の2着。


前哨戦の産経大阪杯で4着に敗れて連勝が8でストップしていたテイエムオペラオーであったが、GⅠ本番の勝負強さは別格だった。

そして初めての直接対決から、ちょうど1年が過ぎた6月24日。

季節はめぐり、再び梅雨の仁川へと舞台は戻ってきていた。


数えて6度目の直接対決、第42回宝塚記念。


このレース限定のファンファーレが、阪神競馬場に響き渡る。

レースは、柴田善臣騎手のホットシークレットの緩やかな逃げで始まった。

13秒台の緩やかなラップで先手を奪うと、その後11秒台の早いラップを2ハロン重ね、後続を引き離す。

メイショウドトウと安田騎手は好位4番手あたりを追走。

テイエムオペラオーと和田騎手はそこから少し離れた7番手あたりを追走するが、岡部騎手のダイワテキサス、安藤騎手のトーホウドリーム、後藤騎手のステイゴールドにマークされて囲まれている。

 

阪神の緩やかな4コーナーを迎え、馬群が固まる中で一瞬早くスパートをかけたのは、メイショウドトウだった。

4コーナーを回って先頭、いつもよりも早い仕掛け。

安田騎手が取った至高の戦術は、好位追走からの4角先頭だった。

 

古くはメジロマックイーンに苦杯を舐めさせられ続けたメジロライアンの鞍上・横山典弘騎手が、同じ宝塚記念で雪辱を果たした際の、究極の先行策。


勝ちたかったら、前に行け。

競馬のベーシックな格言でもあるが、同時にそれは轟沈のリスクの裏返しでもある。

厳しいマークに加えて、4コーナーで他馬に寄られてバランスを崩したテイエムオペラオーだったが、ようやく和田騎手が大外に持ち出し追い出しにかかる。

溜め込んだエネルギーを爆発させるように、一頭だけ違う獰猛なる脚色。

一完歩ごとに、前方で粘るメイショウドトウとホットシークレットを追い詰める。


しかし安田騎手が勇気を持って冒した4角先頭というリスクは、阪神の短い直線でのセーフティーリードという恩恵に姿を変えていた。


メイショウドトウ、1着。

1・1/4馬身差の2着に、テイエムオペラオー。


直接対決で敗れてから、ちょうど1年かけて実った逆転劇だった。

デビューから実に24戦。

GⅠ戴冠とともに、テイエムオペラオーへの先着を遂に成し遂げた瞬間となった。


安田康彦騎手が「絶対に負けられないと思っていた。作戦どおりにいきました」と胸を張れば、実父の安田伊佐調教師は「オペラオーに勝ならここしかないと思っていた。いつもわずかな差で負けてきて、悔しい思いもしてきたし、本当にうれしい」と喜びを表現する。

安田騎手は「今日負けたら、メイショウドトウから降板を申し出よう」という決意でレースに臨んだという。

こういう腹をくくったとき、人は強い。

言うなれば「必ず勝つ」という強固な信念と、どんな結果も受け入れようと委ねたときに、ときに天は微笑むのかもしれない。

メイショウドトウの戦績に並ぶGⅠでの5回もの「2」着という数字。

その葛藤があったからこそ、この宝塚記念でのカタルシスもまた大きかったのだろう。

5つの「2」着は、この宝塚記念の「1」着の数字と同じように、私には輝いて見える。

長い長い葛藤を振り払う、メイショウドトウと安田騎手の、魂の4角先頭。

 

観るたびに勇気を与えてくれる、そんな2001年・第42回宝塚記念の想い出。

宝塚記念。

阪神競馬場・芝2,200m。

葛藤は大きければ大きいほど、カタルシスもまた大きくなる。