ダービーを勝つということ

とある本によると、競馬発祥の国イギリスで初めて「ザ・ダービーステークス」が開催されたのは1780年だそうだ。その2年前に創設されたセントレジャーステークスに続いて行われたクラシックレースだった。
当時1マイルで開催された「ザ・ダービーステークス」は当初、権威あるレースとは考えられていなかった。3歳クラシックレースが権威をまとうのは、それからずっと後のことになる。
イギリスで時をかけて育てられた『ダービー』という権威は世界中へ広がり、日本ダービーはイギリス「ザ・ダービーステークス」から152年後の1932年、「東京優駿大競走」として目黒競馬場で第1回が行われた。
ダービージョッキー。
「ザ・ダービーステークス」から238年間、競馬に携わる全てのホースマンによって発展を遂げ、守り続けられてきたジョッキーの権威だ。
それは、騎手が得られるレースの勝者として唯一無二の称号であり、敬意をもって世界で語られる。
そして2012年、日本ダービー。
──残り400mを残して果敢に先頭に立ったディープブリランテ
負ければ早仕掛けだと責めを負うリスクを犯し、岩田騎手は、必死に追い続ける。そのフォームは乱れ、手綱を落とし、バランスも崩れる。
その後方から、速めの流れを味方につけて一直線に伸びるフェノーメノ。彼らにとっては絶好のレース展開。進路も十分、残りはフェノーメノの爆発力を発揮するのみ。
──蛯名騎手の悲願達成は、目前だった。
同じサンデーレーシングの勝負服を纏った2人のジョッキー。
ダービーのゴール板は2人の運命を分けた。
前年、2011年はオルフェーヴルの3冠に沸いたクラシックだった。雨のダービーを乱れることなく走る姿は、今も印象に残る。
前年度とは異なり、当時のクラシック戦線は混戦だった。弥生賞を9番人気の伏兵コスモオオゾラが勝ち、スプリングSはグランデッツァが勝利。
そして、皐月賞。
この年は開催中に雨の降る日が続き、中山競馬場の馬場コンディションは悪かった。あのゴールドシップと内田騎手がガラ空きのインを駆けた伝説のワープが記憶に残る。
この一連のクラシック戦線の中で、もがき苦しんでいた馬がいた。
ディープブリランテだ。
デビュー戦から雨の東京スポーツ杯を連勝。クラシック有力候補として残りの2歳シーズンを休養にあて、年明けの共同通信杯へ満を持して出走した。ところが、レースでは思わぬ逃げる展開になってしまった。ディープブリランテの前向きすぎる気性が岩田騎手の制御を振り切ったためだ。目標になったディープブリランテはゴールドシップにゴール前交わされ、2着。同馬を管理する矢作芳人調教師と岩田騎手に課題が突きつけられた。
それは『ディープブリランテと折り合うこと』。
これが、なかなか乗り越えられない壁だった。続くスプリングステークスも折り合いに不安を残した走りでグランデッツァの2着。そして、続く皐月賞は馬場の影響もあってゴールドシップの3着と後塵を排する。
ダービーまでの5週間、岩田騎手は更なる試練に襲われる。5月6日NHKマイルカップでマウントシャスタに騎乗した岩田騎手は直線で斜行、シゲルスダチに乗る後藤浩輝騎手を落馬させてしまう。この事故によって2週間の騎乗停止処分を受けた。競馬に乗れない時間、岩田騎手は矢作調教師にディープブリランテの調教パートナーを志願した。騎手を乗せる事に抵抗があった矢作調教師と岩田騎手は互いの意見を心の底からぶつけ合ったという。すべては、ディープブリランテと折り合うため。岩田騎手は、それに賭けた。
フェノーメノは、弥生賞まで手綱を取っていたのは岩田騎手だった。その弥生賞で皐月賞の権利獲りに失敗したフェノーメノは目標をダービーに切り替える。この時点ではフェノーメノはディープブリランテのようなクラシック有力候補ではなかった。新たなパートナーに蛯名騎手を迎えたフェノーメノはダービー出走権をかけた青葉賞を快勝、ダービーの出走枠に滑り込んだ。
11年池添謙一騎手、10年内田博幸騎手、09年横山典弘騎手、07年四位洋文騎手、06年石橋守騎手。
この何年かで周囲にダービージョッキーが増え続ける現実を、岩田・蛯名両騎手はどう受け止めていただろうか。
「次は自分だ」
きっと2人は、そのぐらいの気概を持っていたにちがいない。でなければ、ここまでのキャリアは築けないだろう。
2012年5月27日。
前年の大雨とは真逆の突き抜けるほどの青空が、第79回東京優駿・日本ダービーを迎えてくれた。
皐月賞で展開と馬場に泣いたワールドエースが1番人気。その鞍上である福永騎手も、悲願のダービー制覇を目論む一人だ。
一世一代のイン突きを皐月賞で披露したゴールドシップが続く2番人気、ディープブリランテは3番人気、グランデッツァが4番人気、フェノーメノは5番人気だった。
レースの主導権を握ったのはゼロスと川田騎手。後続を引き離して逃げていく。厳しい流れになることを承知で、トーセンホマレボシとクレイグ・ウィリアムズ騎手がゼロスを追いかける。
ディープブリランテは3,4番手を追走。岩田騎手との呼吸はこれまでより段違いに合っているようで、折り合いをかいているという実況はされなかった。
そこからやや離れた位置にフェノーメノ。こちらはハイペースの縦長隊列が幸いし、馬に囲まれることなく絶好のポジションだ。蛯名騎手も極めて冷静に乗っているようだ。
前半1,000m通過59秒1。ゼロスは向正面でもペースを落とすことなく走り続ける。トーセンホマレボシを振り切りたかっただろうが、そう意図した通りにはいかない。
それもそのはずだ。
日本ダービーで、楽な競馬はなかなかさせてもらえない。
厳しいラップのまま、勝負どころに差しかかる。4角手前でウィリアムズ騎手がムチを飛ばし、トーセンホマレボシの手綱をしごいている。はたして本当に手応えがないのだろうか、百戦錬磨のオセアニアの雄が大舞台でそんな無謀なレースをするとは思えない。
案の定、直線でトーセンホマレボシが加速したようにみえた。岩田騎手はそれを見逃さずに我慢を重ねさせたディープブリランテを解放する。相手は後ろではない、先頭にいる馬だ。先頭を奪わなければレースに勝てない。
2頭が叩き合いながら最後の坂を登る。岩田騎手の気迫が勝り、ディープブリランテがトーセンホマレボシに競り勝つ。バランスを大きく崩しながら岩田騎手は懸命に鼓舞し続ける。
「まだだ。あと少しだ。頑張れ、ゴールまで」
大きなアクションゆえに手綱を落とす場面もありながら追い続ける姿に、岩田騎手の叫びが聞こえてくるようだ。しかし、前半の厳しい流れがに加えて早めにトーセンホマレボシを捕らえたことで、ディープブリランテの脚色が鈍る。岩田騎手がここで諦めるはずはない。前へ、少しでも前へとディープブリランテを背中から押すように励ます。
 
そこへ、フェノーメノが一直線に襲いかかる。道中でストレスなく運べた蛯名騎手は素早く進路を確保、フェノーメノの爆発力を目一杯に引き出す。流れはフェノーメノのものだ。ディープブリランテは苦しがっている。蛯名騎手にとって千載一遇の好機。決して逃がしてはならぬ。ひたすらに馬場のど真ん中をフェノーメノに走らせる。
同じ勝負服を身に纏った騎手二人の気迫が激突した。
内のディープブリランテ、外のフェノーメノ。
内外に分かれた2人のジョッキーと2頭の若駒。
どちらも、意地でも先頭でゴール板を駆け抜けようと体を伸ばす。相譲らない2頭は鼻面を揃えてダービーのゴールを迎えた。
長い時をかけた写真判定は、無情なジャッジを下す。ダービージョッキーの称号は岩田騎手へ渡り、ディープブリランテにダービー馬の栄誉が与えられた。
このとき、蛯名騎手は悔しさを内に閉じ込めることができなかったという。
前半1,200m1分10秒8、後半1,200m1分13秒0、記録からも流れは早仕掛けのディープブリランテよりフェノーメノの方にあったのは明白だった。
岩田騎手の執念に自分が負けた──蛯名騎手には、それが許せなかったのかもしれない。
ベテランジョッキーをして噛み殺しきれなかった無念。そこにダービージョッキーの尊さがくっきりとみえた。
時は流れ、ディープブリランテは故障のため3歳でターフを去り、フェノーメノは4歳から天皇賞(春)を連覇した。2頭が歩む競走馬生活は大きく分かれてしまったが、あの日、太陽に煌々と照らされたダービーの直線、魂の激突、鼻面を並べてゴール板を駆け抜けた姿は同じ第79回日本ダービーを戦った者として永遠に語られるだろう。
ダービージョッキー。
ジョッキー界で脈々と続く由緒ある称号を次に手中に収めるのは、一体だれだろうか。

 

ダービーが、やってくる。
参考文献「血統と系統と伝統。」増田知之著(東邦出版)