半周の跡〜目黒競馬場跡地、探訪:消えた面影と残された道を辿る〜

そのレースは、86年前の4月24日に開催されたと記録されている。僕がこの「道」を取材したのは2018年の4月21日だった。わりと近い日になったのは、正直に話せば偶然である。

権之助坂を下り、目黒通りをただひたすら、まっすぐ進む。目黒川や大鳥神社を越えて、さらにもうひとつ坂を登り終えたとき、お目当てのバス停が目に入った。

「元競馬場前」。

現在の地図では東京都目黒区下目黒4丁目付近。

ようするに、ここにはかつて「目黒競馬場」と呼ばれた施設があったのである。

目黒競馬場は1907年、東京府荏原郡目黒村に完成した。総面積は6万4580坪。

1周1600メートルで、右回り。今の目黒通り沿いに観客スタンドが設けられていた。

日本が近代化を成し遂げ「軍需品のひとつ」として馬が求められていた時代。優秀なものを産み出すというお題目の下で、国は競馬を許可した。そんな思惑とは裏腹に、人々は娯楽として競馬を愛し、目黒に集い、熱狂した。

もっとも、そんな温度差が、しばしば馬券の販売禁止や政府納付金比率の上昇といったかたちで表れてしまうのだが……。

 

そんな目黒競馬場における最大のハイライトと言えば、やはり「第1回日本ダービーの開催」となるだろう。1932年4月24日、イギリスのエプソムダービーを模した、距離2400メートル・1等賞金1万円の「東京優駿大競争」が行われた。

出馬登録数168頭。単複総数4594票、売上金額9万9080円。

現在の規模感と比べると小さいと感じるかもしれないが、馬産地、競馬関係者、そして取り巻くファンが受けた刺激はとても大きかった。

以来、このレースは多くの人々に愛され続け、日本の近代競馬の第一歩として歴史に名を残し続けている。

ランニングで用いている計測アプリを立ち上げ「元競馬場」を歩き始める。

数分後、早速僕の胸の鼓動が高鳴った。

緩やかなカーブ。

普通に考えれば、これは単なる住宅街にあるカーブのひとつにすぎない。だが、競馬ファンにとっては、この緩やかな曲線は馬たちが駆け抜けたコースの跡という、全く異なる意義を有している。

『おーっ、この道をワカタカは駆け抜けていたのか』と、感慨深い。

周囲は完全な住宅街だ。それを少し気にしつつも、僕は道にピントを合わせながらシャッターを押し続けた。

 

しばらくすると真っすぐの道が続いていく。

この直線は向こう正面にあたるところだな。これもまた、競馬場の名残である。

そんなことを思っているうちに、小さな公園に辿り着いた。スマートフォンを覗く。アプリはここが下目黒5丁目だとしている。時刻は16時を過ぎていた。そろそろ今日の競馬も終わる。レース内容を確認しながら、一休みしようかな……。

一本の大きな木があった。看板が立て掛けられている。目黒競馬場に関する説明が書かれていた。

なるほど、この競馬場を大切に思ってくれた方々のお陰で、この木はこの街で生き続けているのか。もうすでに、青々とした葉が風に揺れている。視線を下に向けると、名も無き花が可憐に咲いていた。

本来ならばこの公園からさらに真っ直ぐ進むのが競馬場としての正しいのだが、僕はあえて向かって右へと曲がった。「元競馬場通り」と名付けられているのだから、やはり気になってしまう。

ただ、道自体は極めて普通のものだった。何か特徴があるわけでもないし、競馬に関するものも無かった。

そして、そのまま「元競馬場前」のバス停へと向かった。道中には戦前の競馬界を支えた大種牡馬・トウルヌソル像もあった。予想よりも小さい像だったので、危うく見逃してしまうところだった。でも、小さくとも、この像もまた、目黒競馬場の面影を示す貴重な存在である。

 

さて、なんとか半周することができた。まだ日も暮れていないし、体力も残っている。頑張ってもう半周してみるか……。

そんな決意のもとで、歩き始めた。

何かが違う。

油面の商店街付近に辿り着いたとき、強烈な違和感に襲われた。

さっきまで感じとれていた、競馬場の空気が消えている。

 

地図を見ればわかるとおり、巡ろうとしていたもう半周のコースは区画整理がきちんとなされている。下目黒の4丁目・5丁目側と比べれば、競馬場の空気感が足りないのは仕方がないことだろう。

でも、あまりにも唐突な終焉だった。

目黒競馬場で行われたダービーは、ワカタカが制した第1回と、カブトヤマが制した第2回大会の2つだけである。

 

目黒競馬場が消えた理由。

それは「東京の都市化」だった。

都心の交通網が整備されていくのと同時に、新宿や渋谷が商業圏として栄え始めた。そして、「郊外」だった目黒への住宅需要は大きく高まっていく。現在の東急東横線や東急目黒線が整備されたこともあり、1925年は7万2000人だった人口は、1930年になると13万2000人にまで増えた。

また、目黒競馬場は「借地」であり、そのコストが運営の負担になっていたのも大きかったという。

 

1920年代中頃から行われた府中への移転計画は、1933年の11月に実を結んだ。約25万坪の巨大な施設が完成し、以来この地を中心として、日本の競馬は発信され続けている。一方、目黒競馬場は1933年の春開催をもって閉鎖され、以降はほぼ無抵抗のまま、宅地計画の波に飲み込まれていった。

改めて考える。

「目黒競馬場」とは、今の競馬を楽しむ僕たちに何を残してくれたのだろうか?

かつて、この街に競馬場があった。

しかし、街が成長していく過程で、競馬場は時代の波に飲み込まれ、消えていった。

競馬場の面影は、街の景色から分断され、もう垣間見ることすら難しい。

 

ただ、僕はあの日、歩き続けた中でわかったことがある。

時代の波が押し寄せ、街の景色をどんなに変えたとしても、僕らが競馬を愛し続ける限り、目黒競馬場の記憶と結びつくことができる。

ここに、この街に、競馬場はあるのだ。

 

夕暮れの大通りは、まるで昔からそうであったかのように、車と人が行き交っている。そんな日常を支えているこの道を、いつもとは異なる感慨で眺めながら、僕は目黒駅へと戻るのだった。

【参考文献】

・佐藤正之 「投稿論文 東京社会文化史探訪(2)「大東京」の展開と目黒競馬場の移転--時代に管理された娯楽の構図」 都市問題 / 東京市政調査会 編  2005.12 p.95~104 

・日本中央競馬会 「近代競馬の軌跡 : 昭和史の歩みとともに」 中央競馬ピーアール・センター 編  1988.9