東京競馬場のパドックの外れには、とある馬の銅像が立っている。
現地観戦派の競馬ファンにとっては、その存在を認識している人も多いのではないだろうか。

その馬の名は、トキノミノル。
1951年のダービー馬だ。

10戦10勝。
戦後の日本競馬で唯一、中央で10走以上した上で無敗を貫いた名馬である。
最近ではイギリスのフランケルが14戦全勝だったが、世界的にみても10走以上して無敗だった馬は珍しい。

もちろん輝かしい功績を残している名馬である。しかしそれだけで果たして、東京競馬場に銅像が立てられる程、後世まで語り継がれるだろうか?
実はトキノミノルの名を、さらに広めた悲しい出来事がある。そしてそれは、彼が『幻の馬』と呼ばれる所以でもある。

日本ダービー制覇から17日後に、トキノミノル自身が破傷風によって天に召されてしまったのだ。

東京競馬場:トキノミノル像

当時を知る競馬関係者は今や年月の流れにより少なくなってしまったが、それでも尚、少なくない人が
「日本競馬史上最強の馬は、トキノミノルだ」
と、コメントする。

既に半世紀以上も前の話であり、一概に比較する事は出来ないのだが、もしかすると歴代の三冠馬すらも凌ぐほどの実力だったではないのかと、私は考えている。
なぜならばトキノミノルは、圧倒的なスピードとスタミナを兼ね備えていた事で、通算10戦の出走レースのうち、ダービーを含めた7戦で、当時の日本レコード勝ちを収めているからだ。
しかも距離も幅広く、デビュー戦の800mから最期のレースとなった日本ダービーの2400mまで、実に3倍もの距離のレースを勝利している。さらには芝・ダート両方でレコードを記録している。

無敗であるため、実際どの距離・条件に適性があったのかすら、未知数である。
まるで、ゲームの世界ではないだろうか。

それほど異次元な馬が今の日本競馬に現れたら、きっと社会現象を巻き起こしているだろう。それは当時の日本も変わらなかった。
「戦後の国営競馬界にとっての救世主となった」という声が聞こえてくるのも頷ける。

トキノミノルの死後には本馬をモデルとした映画が作られ、文部科学省の推薦作品として選ばれた。
後に功績を認められ第1回目の顕彰馬の1頭となると、皐月賞トライアルとして今も有名な共同通信杯(G3)の副称として「トキノミノル記念」が使用されるようになった。

因みに中央競馬で名馬を冠したレースとしては、三冠牝馬ジェンティルドンナや二冠馬アーモンドアイを輩出した「シンザン記念」や、2年連続年度代表馬のキタサンブラックが初のG1馬となった秋の菊花賞に向けて好発進したのが記憶に新しい「セントライト記念」などがあるが、別称として馬名を冠したのはトキノミノルが最初である。

それだけで、この馬に対する評価はとてつもなく高いという事がわかる。
実際のレースでは逃げることになるのがほとんどであったが、脚質に関しては一概に逃げ馬とは言えないというのが大方の見解だろう。むしろ他馬との絶対能力が違いすぎてハナを主張せざるを得なかった……という表現が正しいかと思う。

少なくとも、9戦目の皐月賞まではそんな状況だったのだ。

横浜・馬の博物館:トキノミノル像

しかし、トキノミノルにも弱点があった。

生まれつき右前脚が弱かったこと。
その脚を庇うため、実質3本脚のような走り方であったこと。
それらにより、いつ故障してもおかしくなかったこと。

そして、皐月賞後にはそうした弱点を庇いつづけた事により、左前脚に裂蹄と健の腫れを起こしてしまう。
次に控えたレースによっては、回避という選択肢が選ばれていてもおかしくはなかった。

しかし次に控えているレースは、他でもない日本ダービー。

この当時も今と変わらず、競馬関係者にとっての日本ダービーに対する執念は、凄まじいものだったのではないだろうか。
そしてその執念にトキノミノルも応え、まるでダービーに合わせたかのように左前脚の復調を見せる。これならいける、と陣営が判断するに足る状態となった。

迎えた、日本ダービー。
脚の状態もありトキノミノル陣営は、これまでと戦法を変えざるを得なかった。
それまでの先手主張を、主戦である岩下騎手が諦めさせたのだ。

「怖くて前に行けなかった」

馬の状況を案じた、やむを得ない騎乗だったのだろう。
とにかく無事に返ってくるようにゆっくり進むか、生命を懸けてダービー馬の栄光を掴む為に必死に追うか──。

ギリギリの選択だったに違いない。
しかし結果的に言えば、トキノミノルは第3コーナーの手前で早くも先頭に立った。
そしてその先頭を保持したまま、迫り来るライバルであったイッセイをいとも簡単に振り切って、日本レコードでダービーを制したのだ。

場内も沸いた。
多くの観客が、トキノミノルを応援していた。
レース後に埒が破損するほどに、観衆の流れは激しかった。

これほどまでの現象は、戦後の日本競馬界には見られなかった光景であり、まさに競馬界のスーパースターという存在にまでなったのだ。
だが、一説によればこの時点で既にトキノミノルは破傷風に感染してしまっていたのだという。

治療に投じられた金額は当時の日本ダービーの1着賞金と同程度だったと言われている。
しかしその治療もむなしく、トキノミノルはこの世を去った。
現代ではワクチンの発展もあり、破傷風は治せる病気である。今ではあまり知られていないが、この一連の悲劇が、後の破傷風研究に大いに役立てられている。

競馬に「たら・れば」は禁物だ。
しかし、それでも無事に破傷風にかからなければ……という気持ちを持ってしまう程の惜しい名馬だった。
そんな馬だからこそ、当時、陣営に対する批判は痛烈を極めた。

大きな悲劇のあとである。仕方のない事なのかもしれない。
しかし、もし私がトキノミノル陣営という立場だったとして、同じ状況でダービーを自信持って回避できただろうか?

トキノミノルのような異次元の馬が、生まれ持った弱点によって裂蹄と健の腫れを起こしてしまったものの……ダービーに合わせたかのような復調を果たした場合、走らせずにいられただろうか?
私には、自信がない。

ダービー後の反動があったとしても、ある程度休めば、菊花賞に向けてゆっくりと調整していけるはずだと考えてしまう。

ダービーを勝たせたい、と考えてしまうだろう。
きっと、楽観的に。

皆さんなら、どのように考えるのだろうか?

ダービーの出走の時間、少しだけでも『幻の馬』に思いを馳せていただけると、有り難い。

写真:a-ki

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