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ただ同じ砂の上で~ 1998年 帝王賞に寄せて

 

何かにつけて、目に映る世界にさまざまな色を付けたがるのが、人の性。

けれども、ほんとうはすべてのものごとには正誤善悪も何もなく、「ただそこに在る」だけなのかもしれない。そこに意味づけを行っているのは、やはり「人」。

 

目に留まる世界の切れ端から、何を、どんな眼鏡をかけて見るか。そしてその眼鏡は、必ず「自分で」選ぶことができる。

 

ただ走るサラブレッドに、どんな色を乗せるのかは、見る人に委ねられている。

 

上半期のフィナーレを飾る砂の王者決定戦・帝王賞。

 

──あの年のレースを見返すと、そんな想いに駆られる。

 


 

1997年春。

地方・中央交流競争の黎明期を席巻した女傑・ホクトベガは、中東ドバイの地で星となった。

 

眩いばかりの光を放っていた巨星の、突然の訃報。

その深い悲しみは、競馬に関わる人の心とそれ以後の交流戦線に、ぽっかりと大きな穴を空けた。

 

誰しもが彼女の不在を深い悲しみとともに実感しながら、新たな星を待ちわびた。

 

彼は、そんな激動の時期に南関東から現れた。

 

アブクマポーロ。

 

父はフランスのGⅠ・イスパーン賞を連覇したクリスタルグリッターズ。

この馬は不思議な種牡馬で、超長距離GⅠ・菊花賞を制したマチカネフクキタルを輩出しながら、超スプリントの芝1,000m日本レコードホルダー(2017年6月24日現在)であるカルストンライトオの母の父でもある。

マチカネフクキタルのデビュー戦・初勝利がダートだったように、芝ダート距離不問で活躍馬を出すのは、前向きな気性と優れたスピードを伝えるレッドゴッド系~ブラッシンググルーム系の特徴なのだろう。

 

一方、母の父はペール。

日本のリーディングサイヤーに何度も輝いたパーソロンの全弟として輸入されたが、目立った活躍馬を出していない種牡馬だ。端的に、地味な母系と言えた。

 

そんなアブクマポーロのデビューは1995年5月。

4歳で緒戦を迎えた彼は、大井競馬場のダート1,200mで荒山勝徳騎手を背にデビュー勝ちを飾る。

 

その後、4歳時は8戦して3勝。

5着以下のない安定した戦績であったが、上から数えて6番目のC1クラスで4歳を終える。

 

転機は、脚部不安による7か月の長期休養から明けた5歳シーズンだった。

 

復帰戦を勝利で飾ったのちに、新進気鋭の出川克己調教師のもとへ転厩。

そして鞍上はアブクマポーロの引退まで手綱を取ることになる南関東の名手・石橋隆之騎手を迎える。

ここから、アブクマポーロの走りは俄かに光を帯び始める。

 

5歳時は残り3戦して3勝のパーフェクト。

その後約8か月の休養を挟んで、6歳時の大井記念まで7連勝で重賞初制覇。

 

迎えた1997年7月、GⅠ・帝王賞。

GⅠ初挑戦となったアブクマポーロであったが、南関東の生きる伝説・的場文男騎手の駆るコンサートボーイを猛追するもクビ差届かず2着。

しかし、中央初の砂のGⅠ馬・シンコウウインディや武豊騎手のバトルラインを下しての結果であり、それはアブクマポーロの本格化を告げるものだった。

 

その後、中山のGⅡ・オールカマーでの芝への挑戦(8着)を挟み、大井のグランドチャンピオン2000でコンサートボーイに雪辱の勝利。

返す刀で中京のGⅡ東海ウインターステークスも制覇。

年末の大一番・東京大賞典は距離適性の差が出たのか、トーヨーシアトルとキョウトシチーに屈して3着で締めくくる事となった。

結果、アブクマポーロは6歳の1997年を、9戦6勝という堂々たる成績で終えた。

 

そして年の明けた1998年。

7歳になったアブクマポーロの走りは、まさに砂の巨星となって交流戦線の主役を演じる。

 

1月28日、川崎、統一GⅠ・川崎記念、1着。

 

3月18日、船橋、統一GⅡ・ダイオライト記念、1着。

 

4月16日、大井・マイルグランプリ、1着。

 

5月27日、船橋・統一GⅢ・かしわ記念、1着。

 

無人の荒野を往くが如く、アブクマポーロは再び連勝街道を歩んでいった。

 

──迎えた6月24日、統一GⅠ・帝王賞。

 

再び大井競馬場のカクテルライトの大舞台へ戻ってきたアブクマポーロは、もはや挑戦者ではなく、頂点を目指す孤高の王者となっていた。

上半期の締めの大一番の主役として、堂々の1番人気を背負う。

 

 

レースは、岩手のメイセイペラの逃げで始まった。

 

アブクマポーロは好スタートを決め、正面スタンド前では先行集団に加わるかと思われたが、向こう正面に入ると石橋騎手が徐々にポジションを下げていく。

 

先頭は変わらずメイセイオペラ。

先の川崎記念では4着、鞍上の菅原勲騎手には期するものがあったはずだ。

 

3番手あたりを藤田伸二騎手のバトルラインが追走。

その後ろ、前年の東京大賞典で屈した松永昌博騎手のトーヨーシアトルは中団少し前目にポジショニングしていた。

 

重賞2連勝で乗り込んできたワイルドブラスターと橋本広喜騎手も、ちょうど中団あたり。

それを見るように、アブクマポーロと石橋騎手はインコースを進む。その横で馬体をあわせるのが、同じピンク帽の白い馬体、古豪・エムアイブランと武豊騎手。その後ろには、北関東の雄・ブライアンズロマンと内田利雄騎手がいた。

 

砂塵舞い上がるコースを庭とする各地の名だたる強豪たちの思惑が交錯する中、レースは佳境の3コーナーに入っていく。

 

トーヨーシアトルとワイルドブラスターが仕掛ける中、藤田騎手のバトルラインも動く。

アブクマポーロと石橋騎手は、まだ狭い最内を通って仕掛ける瞬間を図っていた。

 

4コーナーを曲がって、先頭はメイセイオペラ。外からトーヨーシアトルが追い出し、並びかかる。一呼吸遅らせて、バトルラインがその2頭の間から突き抜けようと藤田騎手が追う。

 

しかしその3頭のさらに内側、内ラチ沿いから、王者はやってきた。

石橋騎手のGOサインに応え、最も狭い最内から脚色を伸ばすアブクマポーロ。

 

トップギアに入った彼は、残り200mの標識で逃げ粘るメイセイオペラを射程に捉えると、そこからは孤高の一人旅。

 

残り100m、メイセイオペラとの競り合いを制したバトルラインが差を詰めてくるが、アブクマポーロに馬体を併せるまでには至らない。

 

石橋騎手の渾身のイン突きと、それに応えるアブクマポーロの強靭なる末脚。

大井の夜空に燦然と輝く二つの星を見た気がした、第21回 帝王賞。

 

 

その後、アブクマポーロは不良馬場の盛岡・南部杯で蹉跌を踏むも、暮れの東京大賞典では前年の雪辱を果たし、1998年の年間最多賞金王に輝いた。

日本ダービーを制した中央のスペシャルウィークを抑えて、交流重賞7勝での獲得であった。

 

翌年、川崎記念、ダイオライト記念と勝利を積み重ねたが、左後脚の故障により無念の引退となる。8歳になっても底を見せない強さに、故障がなければどこまでやれたのだろうと、タラレバは尽きない。

 

あの夜空から、おおよそ20年が過ぎようとしている。

 

ホクトベガが散った中東・ドバイで凱歌を上げた名馬たちも現れた。秋のロンシャンで一番高い表彰台は未踏の地ではあるが、惜敗と呼べるレースをいくつも経験した。

北米・チャーチルダウンズの、栄光の薔薇に彩られた「最も偉大な2分間」への挑戦も、経験した。

イギリス・香港・オーストラリアのGⅠを制した優駿たちも現れた。

 

その一方で、ライバルの1頭であるブライアンズロマンが主戦場にしていた宇都宮・高崎・足利・上山競馬場は、2000年代に廃止の憂き目にあっている。

同じように中津・荒尾・益田・福山・三条・旭川・岩見沢・北見といった地名も、競馬ファンにとってはある種のセンチメンタルな響きを帯びる。

 

競馬ブームを巻き起こし、社会現象までになったハイセイコー、オグリキャップの紡いできた、地方競馬のロマンの物語の消失。

 

決して良血とは呼べない地方出身の雑草たちが、並み居る中央の一流血統のエリートたちを打ち負かす──イナリワン、ライデンリーダー、コスモバルクらに受け継がれてきた、そんな感情を揺さぶる物語の消失。

 

けれども、それすらも一つの見方であり、人のする色づけの一つなのかもしれない。

遠く海外の大レースも、ローカルの未勝利戦にしても、走るのは同じサラブレッド。

 

ただ目の前を走るサラブレッドと騎手の速さと美しさに感動し、声援を送ること。

私にできることは、それだけなのかもしれない。

 

 

重要なのは

 

感動させられることであり

 

愛することであり

 

希望することであり

 

戦慄することであり

 

生きることなのである

 

 

芸術家であることの以前に

 

人間であることだ

 

フランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(1840~1917年)

 

 

フランスの彫刻家、ロダンの名言の最後の2行の「芸術家」を「中央か地方か」、「人間」を「競馬ファン」に置き換えてみたくなる。

そんな、1998年帝王賞の想い出。

 


 

帝王賞、大井競馬場・ダート2,000m。

 

カクテルライトの照らす砂上に、眩い新星の誕生を見よう。

 

 

文・大嵜 直人

写真・かず

 

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