カメラを持って競馬場へ

 

やってしまった。

やってしまうものなんだなぁ。

京都競馬場のパドックで、うなだれた。

 


 

あれほど確認したのに……いや、慎重になりすぎたのがあだになったのだ。

前日に動作確認をして、スイッチを消し忘れたまま一晩。当然ながらバッテリーは空になっていた。

予備の持ちあわせもない。いつもは持ってきているのに、この日に限って……。

 

──どうしよう、どうしよう、どうしよう!?

 

今日は絶対に撮りたい馬がいる。この機会を逃せば一生後悔する。

すぐに、決断した。

バッテリーを交換しに帰ろう、今すぐに。

 

京都から、大阪まで。

 

 


 

時間には余裕があったので、いまパドックを周回しているレースを観てから引き返すことにした。

カメラを構えるときはなるべく馬を見る人の邪魔にならぬよう少し離れた場所に立つのだが、久々に手ぶらとあって、最前列の特等席に立ってみる。

 

懐かしい距離だった。

馬が近い。

 

蹄の音、息づかいさえもすぐそばに感じられる。それは、カメラを持つよりも前に、私の目の前に広がっていた景色だ。肉眼で見る競馬の世界は、手を伸ばせば届きそうなほどに近い。

彼らと自分とを隔てているのは柵と空気だけ。

いとおしいものたちを、ただじっとそばで見つめる幸せを思い出した。

 

たった一枚のレンズが、目の前の景色を遠く隔ててしまう。

カメラを持つ前はそう思っていた。だからあえて持たなかった。

でも実際に持ってみると、カメラは自分と彼らとの距離をほんの少しだけ近づけてくれた。

撮れば撮るほど、夢中になっていった。

やがて撮ること自体にこだわり、時間や機会に追われるような気持ちも生まれてきた。

 

シャッターを切る楽しさと引き換えにしてきたことも、あったのかもしれない。

初めて競走馬と間近に向き合ったときの新鮮な驚きとときめき。

何ものにも急かされず、ただじっと彼らと分かち合うゆるやかな時間。

 

この幸せに勝るものは、ないかもしれない。

しかしそれでも家にカメラを置いて競馬場に来ることは、もう私にはできないだろう。

自らの手で思い出を形に残す喜びも、いとおしい馬との別れの淋しさも、嬉しい出会いの数々も……すべて身をもって知ってしまったのだから。

 

そんなことをぼんやりと考えているうちに、私は再び淀に帰ってきていた。大阪と京都が近いことにこれほど感謝した日はなかった。

 


 

そして、みやこステークスの時間がやってきた。

半年以上に及ぶ長い休養から復帰を果たしたメイショウウタゲ号は、4角の勝負どころで他馬と接触し、ややあって空馬で走り去っていった。

シャッターは切らなかった。切れなかった。私に、切れるわけがなかった。

 

好きな馬が混乱している。

その様子をただじっと見ているしかない私も、混乱していた。

こういうときは撮らない、撮れない。

 

たとえカメラが、競馬場にいる人馬との距離をほんの少しだけ縮めたとしても、彼らの尊厳に立ち入って踏み越えることはあってはならないと思うからだ。

撮れてしまうからこそ、その是非を自らの良心に問う場面は多くある。ましてや目の前で粛々と行われているのは、競馬なのだから。

彼らと私たちとが柵で隔てられている理由は、そこにこそあるのだ。

 

その日の夕刻に、メイショウウタゲ号と国分恭介騎手の異常がないことが、JRAのホームページ上で確認された。

レース中に何かが起きてしまった日は、JRAの発表する“今日の出来事”に目を通すまで生きた心地がしない。

どうやら無事に帰り着いたであろう人馬を想い、私はようやく胸を撫でおろした。

 

『無事に帰ってきてくれてありがとう』を、もう何度言葉にしてきただろう。

競走馬と向き合える時間はそれほど長くない。

誰にとっても時間は有限で、いつだって出会いと別れは必然で、何ものにもかえがたく尊い。

 

だから撮りたい。

 

彼らとの思い出を胸に競馬とかかわっていく、これからの自分自身のために。

私はおそらくもう競馬からは離れられない。

そこに見たい景色があるかぎり。

いとおしいものたちがいるかぎり。

 

明日も、私はカメラを持って競馬場へ行く。

 

文と写真・たちばなさとえ

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