JRA史上はじめて1分7秒を切った馬はどの馬か、ご存知だろうか?

快速として知られたサクラバクシンオーでもなければ、史上最強スプリンターの呼び声が高いタイキシャトルやロードカナロアでもない。

それは1頭の、スプリント戦の実績がほぼなかった意外な牝馬によって記録された。


淀における冬のスプリント重賞として、すっかり定着したシルクロードステークス。

過去の勝ち馬には、ロードカナロア、ストレイトガール、ファインニードルなど、名馬がズラリと並ぶ。このレースをステップに高松宮記念やスプリンターズステークスを制覇し、短距離界の王者に君臨した馬も少なくない。今や短距離界に欠かせないレースとなった。

1996年に開設されてから4年間、シルクロードステークスは4月に施行されていた。しかし2000年に高松宮記念が5月から3月に移行されるのに合わせて、このレースも現在の第2回京都開催に施行されるようになる。

それ以降、1分7秒〜1分9秒あたりでの決着が多いシルクロードS。2020年2月現在、たった一度のレースを除いて、1分7秒を切った馬は現れていない。

1997年のシルクロードステークス勝ち馬、エイシンバーリン。

並み居る強豪を抑えて、1分7秒の壁を始めて破った日本の牝馬である。

エイシンバーリンは、坂口正則厩舎から、1994年10月に阪神競馬場でデビュー。坂口厩舎といえば、のちに圧倒的なスピードで香港や仏国のGⅠを逃げ切ったエイシンヒカリを管理した厩舎として知る人も多いだろう。

その坂口厩舎が選んだデビュー戦を大差で圧勝したエイシンバーリン。その後も京成杯3歳ステークス(現京王杯2歳ステークス)2着、阪神3歳牝馬ステークス(現阪神ジュベナイルフィリーズ)3着、フェアリーステークス2着と、重賞で好走を続けると、年明けにはクイーンカップ・アーリントンカップの2つの重賞を連勝する。

しかし、エイシンバーリンはその後長期の休養に入り、レースに復帰したのは1年7か月後、4歳秋シーズンの事だった。

復帰後は8戦し重賞1勝を含む2勝を挙げ、当時2000mで施行されていた中京記念5着から4ハロン短縮で臨んだのが1997年のシルクロードステークスである。

そのレースで単勝オッズ1.4倍の圧倒的1番人気に推されたのはフラワーパーク。

デビュー半年で前年のこのレースを制し、その次走の高松宮杯(現高松宮記念)で一気にGⅠ馬へと上り詰め、年末のスプリンターズステークスでは1cm差ともいわれる究極の大接戦を制した、当時の短距離におけるチャンピオンホースである。

2番人気は一昨年のスプリンターズステークス勝ち馬ヒシアケボノで、エイシンバーリンは単勝オッズ35.9倍の8番人気。というのも、それまでの3つの重賞勝ちがすべて1600mのレースに対して、1200mは3戦して2歳時に2着が1度のみ。さらに、それまでは春の短距離路線が整備されていなかったこともあり、適距離ではないレースを仕方なく使う馬もしばしばいたが、前年に高松宮杯が1200mのGⅠに昇格したことでその様な馬もほぼいなくなっていた。

その状況下で、前走2000mのレースから4ハロンも短縮して挑んできた同馬が、完全に伏兵扱いされたのも、無理はなかった。

レースが始まると、スタートで他馬より少しいいスタートを切ったエイシンバーリン・南井騎手が、覚悟を決めたかのようにひたすら手綱をしごき逃げまくる。その叱咤は、隊列がほぼ決まった後も続き、なんと最初の1ハロンはずっと追いっぱなし。

まさに火の出るような逃げであり『玉砕』覚悟の逃げにも見えた。

逆に、少しダッシュが付かずもすぐに盛り返し、ヒシアケボノと共に2番手につけたのがフラワーパークだった。後続馬はエイシンバーリンのあまりの逃げについていくのが精一杯なのか、逆にこのままいけば自然と前が止まると読んでいたのか、前3頭にあえて突っかかることをせずにレースを進めていた。

実況アナウンサーが最後方まで全馬を言い終えるころ、既に3頭は4コーナー手前に差し掛かっていた。映像は最後方から先頭に戻るが、ここが先頭だろうとばかりにカメラマンが捉えたのは、実際には2番手につけていたGⅠ馬2頭であった。もしかするとカメラマンが先頭を勘違いしたのかもしれない。GⅠ馬2頭がこんなに速いペースで逃げているのだ、無理はない。

カメラはそこから数テンポおいてから、さらに2馬身前を快調に逃げまくるエイシンバーリンを、ようやく捉えた。

そうした中継映像のカメラワークはまるで関係ないように、開幕週の絶好のインぴったりをあっという間に回り、早くも直線に入るエイシンバーリン。

その頃には、2番手との差は一気に4馬身へと広がっていた。

「さすがに脚が上がってしまうのではないか?」と感じた観衆は、多かっただろう。

カメラが再度2番手を映し出そうと首を振ると、馬群に飲み込まれるヒシアケボノと、中団にいたビコーペガサスとシンコウキングに捕らえられるフラワーパークの姿が映し出されていた。『玉砕』はおろか、結局レースを終始圧巻のスピードで『支配』したエイシンバーリンは、そのまま4馬身の差をキープして悠々とゴールイン。

そして、アナウンサーが口にしたその勝ちタイムに、観衆は大きな衝撃を受けた。

──1分6秒9!!

3年前、自身の引退レースとなったスプリンターズステークスで、サクラバクシンオーが圧勝で記録したタイムが、1分7秒1。

それでも当時はかなり衝撃的なレコードだった。多くの人がサクラバクシンオーのスピードに酔いしれた。

しかし、それまでスプリント戦にはほぼ実績がなく、前走では2000m戦を走っていたエイシンバーリンが、JRA史上初めて1分7秒の壁を破ったということは、サクラバクシンオーのタイムのさらに上をいく衝撃であったのではないだろうか。

この1分6秒9というタイムの内訳をみると、大変に秀逸なラップだということがわかる。

前後半の3ハロンが33秒5-33秒4という完璧なペース配分。そして上がり4ハロンは、逃げ馬としては驚異の43秒9。

これでは後続は、なす術もない。

タマモクロスやナリタブライアンなど、叩き上げの牡馬を中長距離で追いまくって差す競馬が得意なイメージのある『剛腕』南井騎手が、牝馬でスプリント戦を完璧なペースで逃げ切る。それもまた、衝撃的であった。

実はこの翌週の天皇賞春でも、歴史に残る名勝負の末に、マヤノトップガンが3分14秒4という当時としては驚異の世界レコードを樹立して優勝した。3回京都開催がいわゆる『高速馬場』と言われ始めたのも、今思えばこの年からだったようにも思う。

だからこそ、彼女の出した1分6秒9というタイムがどれほどの強さによるものだったのかは、正直今となってはわからない。もちろん芝の状態もタイムには関係するし、でもそれだけでは好タイムが出ないというのも確かである。

ただひとつ言えるのは、1分7秒の壁がJRA史上初めて破られたこのレースは、レース内容も含め多くの人にとって大変な衝撃であったこと。この事実は、これからもずっと変わらない。

施行日が移行し、冬の寒い時期に行われている現在のシルクロードステークス。しかしシルクロードステークスの日が来ると、今でも決まって思い出すのは、スタートから圧倒的なスピードで逃げまくり、出走した他の人馬だけでなく、見るものすらも完全に『支配』した1頭の牝馬と騎手──エイシンバーリンと南井騎手のことばかりである。

写真:かず

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