好きな馬とお別れをした、あなたとわたしへ。


その日、年に二度響きわたる勇壮なファンファーレ──障害競走の頂点を競うJ-G1のファンファーレ──を、私が中山競馬場で聴くことはなかった。

 

 

年に二度、欠かさずにおもむく大好きな競馬場。しかし、あえて中山行きの切符をとらなかった。

夜も眠れないくらいに待ち望んでいた遠征の足どりを、自ら途切れさせた。

どうしても、かの地へと足を運ぶことができなかったのだ。

 

障害レースを志す人馬とファンにとって特別な一日を、遠く離れた地元・大阪の雑踏のなか、ひとりで過ごす。

離れれば離れるほど、よりいっそう惹かれるもので、終始そわそわしながら、ゲートが開く決戦の時を今か今かと待ちわびていた。

 

前人未到の中山グランドジャンプ四連覇。

 

おそらく半永久的に破られることのないであろう大記録をうちたてた、絶対王者オジュウチョウサン。

その偉業達成に心躍りながらも、気持ちはふたたび遠い世界へと移ろった。

 

私の春に、想いつづけてきた馬はいなかった。

 

私には、再会を心待ちにしていた馬がいた。

在厩状況と追い切り内容とを見比べながら、もうすぐ会えると指折り数え待ちわびていた“彼”は、登録抹消というかたちで表舞台から忽然と姿を消した。

 

新たな年の余韻も落ち着いてきた頃の報せだった。

 

 

JRAが競走馬の近況を伝えるのは、原則的に重賞競走で勝ち星をあげた馬に限られる。

なぜ・どういう状況で・どうなったのか。

そして、どこへ行くのか──。

 

それ以外の大多数については想像で補うほかないのが現状だ。

彼の場合、すでにこの世を去っていたという事実だけが、かろうじて伝え聞くことが出来るだけだった。

重賞タイトルの壁。

彼があと一歩及ばなかった厚い壁に、最期まで阻まれる。

皮肉な現実にうちのめされた。

私の春は、おとずれる前に色褪せてしまった。

 

暮れに怪我を負ったアップトゥデイトは、秋まで帰らない。

そして“彼”もいなくなった。

大切な存在を失い、目的もモチベーションもなくして、身も心も芯からへし折れて、自分が崩れていくのを感じた。

ひとの身体をつき動かしているのは気力だ。

気力とは何かをしたい、どこかへ行きたい、誰かに会いたいと望む気持ち。

“好き”を叶えるための原動力だ。

 

その大半が失せてしまい、あれほど足繁く通っていた競馬場へおもむくことさえ、ままならなくなってしまった。

 

 

じっと部屋に閉じこもりながら、来る日も来る日も自責の念に駆られた。

事実と現実を受け入れているはずなのに、いつまでも割り切れない自分自身を。

 

障害レースへの、競馬への情熱をもなくしそうになっている、弱くて薄情な心を。

 

競馬とは、馬を好きになるとは……こんなにもつらいことだったろうか?

この気持ちに救いはないのだろうか?

 

誰か私を助けてほしい。

誰かにこの気持ちをわかってほしい。

そう感じた事もあった。

しかし、好きだからこそ、自分自身で折り合いをつけて立ち直っていくしかないのだ。

 

競馬で味わった悲しみと絶望から私を救い出してくれたのは、ほかでもない、競馬に触れられる喜びだった。

 

残された者は毎日を生きていかねばならない。

日常をどうにか乗り切っていくうちに、次第に競馬場で馬たちに会いたいと思えるようになってきた。

あるときは彼の寮馬に声援を送ったり、またあるときは彼がかつて出走した思い出のレースに想いを馳せたりして、ほんとうに少しずつ、心と体を癒していった。

まずは近くから、地元の競馬場から。

気持ちを奮い立たせ、身体を動かして、眺めた先にあった光景は、変わらず美しいままだった。

力の限りにターフを駆ける人馬。彼らを送り出す人々。歓声を上げるファン。

みんな精一杯に生きている。

私ももう一度、この中のひとりになりたい。

心の奥底から、失っていた情熱がふつふつとわきあがってくるのを感じた。

 

気力がよみがえったからといって、決して元通りの自分に戻ったわけではない。

彼との出会いやそれからの出来事が、私の競馬との向き合い方を変えていた。

ようやく「心構え」ができたのだと思う。

 

散りはじめた桜とともに、遅れてたずねてきた春を、私は阪神競馬場で迎えた。

 

 

馬と出会い、馬を愛するということは、いつか馬と別れるということ。

競走馬との時間は、ひとの長い人生の中ではまるで刹那のように短い。

とはいえ、いつか来る終わりを常日頃より覚悟して、毎日を惜しみ、過ぎ去った月日を振り返りながら暮らすべきだとは思わない。

どんな形にせよ、いずれそういう日が来るであろうことを、心のどこかでやわらかく意識しておこうと思う。

 

私は彼が突然にいなくなってしまう日を、まったく想像できていなかった。

十年以上も、競馬と向き合ってきたというのに。

ともに過ごした年月に、喜びや幸せばかりを見いだそうとしていたのかもしれない。

だから打ちのめされたのだろう。

 

忘れたくなくて、忘れるくらいなら、ずっと悲しんでいたかった。想っていられるのなら、ずっと苦しんでいたかった。苦しみ悲しんでいるあいだは心が離れることはないと、勝手な執着から長らく彼を手放すことができずにいたからだろう。

そんなふうに思いつめてしまう時期も、生きていくうえでは誰にだってある。

 

誰かを想う気持ちは尊い。

誰かに想われるのは嬉しい。

でも、あなたが愛ゆえにいつまでも自分を責めたり後悔をして苦しみつづけることを、きっと誰も望んではいないのだ。

たとえあなた自身が望んだとしても。

たとえ直接には出会うことがなかったとしても、あなたの愛を得て幸せだった人馬がいる。

馬の傍にいるひとたちは、馬を愛するひとの喜びや幸せをこそ願っているのではないだろうか。

だからどうか、ほかならぬあなたが、あなた自身を赦してほしい。

 

ひとの想いによってこの世に生を受けた競走馬たち。

私たちは彼らとともに生きられるわけでも、彼らが私たちに直接何かを思うわけでもない。

“好き”とはある種の思い込みで、他者にとっては理解の及ばぬ関わりや繋がりに過ぎないのかもしれない。

しかしその積み重ねこそが、やがて縁と呼ばれるものになっていくのだろう。

私にとって今も以前もこれからも、彼が唯一無二の存在であることにかわりないように。

文・たちばなさとえ

写真・笠原小百合



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