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[平成名勝負]1マイル1分37秒5の、最速〜1998年安田記念・タイキシャトル〜

 

日本と世界。

「平成」という30年と4か月弱続いた時代に、その関係性は大きく変化した。

 

よく言われる指標である「ヒト・モノ・カネ」においても、それは顕著だった。

モノとカネを表す経済面において、平成という時代は世界での日本の立ち位置を大きく変えた。

昭和の終わりから平成3年あたりまで続いたバブル景気の真っただ中には「アメリカ全土を足した地価よりも、東京都の地価の合計の方が高い」とまで騒がれた。

しかし、日本のGDPが世界全体に占める割合は、平成6年において17.6%を記録したのちに、平成29年には6.1%と3分の1にまで、その存在感を低下させた。

バブル崩壊後の「失われた10年」と騒がれて久しいが、長くその出口を暗中模索した時代が平成という時代の経済だったと言える。

 

一方で、ヒトはどうか。

日本から海外へ出国した人数は、平成元年に約960万人だったが平成29年には約1,790万人と約1.86倍に伸長した。

逆に海外から日本を訪れた訪日客は、平成元年には約283万人に過ぎなかったが、平成29年には約2,870万人と、およそ10倍に膨れ上がっている。

 

工業立国から、観光立国へ──。

これもまた、日本という国の、世界での立ち位置の変化を示す指標と言える。

しかし才能豊かな個人は、日本国内を出て世界の舞台で輝いたのも、平成という時代を表す一面である。

海を渡り数々の大記録を打ち立て、平成の終わりとともにバットを置いたイチロー選手のようなスポーツの分野のほか、さまざまな分野において世界で才能を輝かせる人たちが現れたのも、平成という時代の変化といえる。

 

それは「ウマ」の世界においても、それは同じようである。

 

昭和33年のハクチカラから始まった日本調教馬による海外遠征は、平成に入るとその数を大きく増やすとともに、海外の大レースでその力を発揮していった。

 

平成7年のフジヤマケンザンによる香港国際カップ勝利に始まり、平成11年にはエルコンドルパサーがフランスへ長期遠征、そして凱旋門賞で世界の頂点へあと半馬身差まで迫った。

平成17年にシーザリオがアメリカの地に遠征し、アメリカンオークスを勝利。日米のオークス制覇という快挙に沸いた。

オーストラリアでは、平成18年にメルボルンカップをデルタブルースが制する偉業を成し遂げる。

ドバイにおいては、平成23年にヴィクトワールピサとトランセンドがドバイワールドカップにおいてワンツーフィニッシュを決め、震災禍に沈む日本に勇気を与えた。

平成23年には、ラニが「最も偉大なる2分間」と称されるケンタッキーダービーを含むアメリカのクラシック3冠にすべて出走するという快挙を達成。

その他の活躍馬も枚挙に暇がないほどに、平成という時代において、国内の競馬と海外のそれとの関係性は変わったと言える。

 

「挑戦」から「選択肢」へ。

 

平成の終わりごろには、毎年3月のドバイや12月の香港へ遠征する豪華なメンバーを見ていると、そんな言葉が思い浮かぶ。

今回は、そのメルクマールとなった一つのレースについて綴ることで、過ぎ去りし平成という時代を彩ってみたい。

 

そのレースとは、平成10年6月14日に東京競馬場において施行された、第48回安田記念である。

 


 

その安田記念から遡ること1年半前。

平成8年10年27日。同じ、東京競馬場。

第114回を数える伝統の天皇賞において、史上初めて3歳馬が勝利した。

 

バブルガムフェロー。

 

骨折で春のクラシックを棒に振ったことで、前年のフジキセキに続いて「幻の3冠馬」と呼ばれたほどの才能を持っていた3歳の優駿。

秋に復帰したバブルガムフェローと藤沢和雄厩舎は、世代最強を競う菊花賞ではなく、古馬の頂点を競う天皇賞・秋へとその矛先を向けた。

あのオグリキャップですら成し遂げられなかった、3歳での天皇賞制覇。

その壁を、バブルガムフォローは見事に打ち破った。

サクラローレル、マヤノトップガン、マーベラスサンデーといた歴戦の古馬をまとめて打ち負かしたその手綱を取ったのは、それまでの主戦・岡部幸雄騎手ではなく乗り替わりで騎乗していた蛯名正義騎手だった。

そして、表彰式にもバブルガムフェローを預かる藤沢和雄調教師の姿はなかった。

「日本競馬史上初」の偉業を達成したその日に、藤沢師と岡部騎手は太平洋を越えて遠くカナダの地にいた。

管理するタイキブリザードとともに、北米のダート競争の頂点を成すレースの一つ、ブリーダーズカップ・クラシックへ挑戦していたからだ。

そのレースには勝利することはおろか、日本調教馬が出走すること自体すら初めての挑戦だった。

その地を踏み、その空気を吸い、そのレースの雰囲気を肌で感じること自体が、いままで日本の誰もが経験したことのなかった、その世界最高峰への挑戦。

 

しかしその「前人未到」の高みを目指した挑戦の結果は、大差のシンガリ負けという厳しい現実が待っていた。

 

 

 

日本国内での偉業と、遠く北米の地での屈辱。

藤沢師、岡部騎手をはじめとした陣営は、その落差に何を思ったのだろう。

タイキブリザードと陣営は、捲土重来とばかりに翌年の平成9年にも同じブリーダーズカップ・クラシックへ挑戦するが、9頭立ての6着と敗れた。

 

結果だけを見れば、2年続けての惨敗なのかもしれない。けれど、海外遠征はそれをすること自体が、価値があると言える。

 

情報でしかなかったものが、実地で経験をするというノウハウの蓄積を生む。そして、それは次の遠征の際には「余裕」を与えてくれるのだ。

余裕は平常心を生み、馬も人も持っている力を十二分に発揮することを助ける。どれだけ大差で負けようが、それが得られたと思えば、失敗ではない。

 

そうした実利的な面もさることながら、誰にとっても「挑戦すること」、それ自体が価値のあることだと言えるのかもしれない。

結果は、結果でしかない。

挑戦は、それをすることをやめた瞬間に「失敗」となる。

 

どんな結果が出ようとも、それを真摯に受け止め、挑戦することをやめなければ、「失敗」など存在し得ないのだから。

 


さて、タイキブリザードの2回目の挑戦で渡米した平成9年。

国内では、一頭の尾花栗毛の雄大な馬体を誇る3歳の優駿が、短距離戦線を席巻した。

タイキシャトル。

「タイキ」の冠名に、出発の歓喜と帰還の感動の意味を併せ持つ「シャトル」と名付けられたその優駿。

 

父・Devil’s BagはHaloの代表産駒の一頭であり、アメリカの2歳戦で活躍した。

同じHaloの産駒としてはあの偉大なサンデーサイレンスがいる。

 

母・ウエルシュマフィンはCaerleon産駒で、アメリカとアイルランドで走って15戦5勝。タイキシャトルの主戦となる岡部騎手も、その手綱を取った縁があった。

 

オーナーブリーダーである大樹ファームの持ち馬として、アメリカのタイキファームで産まれたタイキシャトルは、アイルランドで育成され日本で調教を施されるという、デビュー前から世界を股にかけた競走馬であった。

 

脚下に不安が出たため、デビューは3歳の4月と遅れたものの、そこから岡部幸雄騎手が手綱を取りダート1,600m、ダート1,200m、芝1,600mと3連勝。

いずれのレースも、抜群のスタートセンスとテンの速さを活かして5番手以内の好位を追走し、最後の直線において確かな末脚で後続を引き離すレーススタイルで、危なげのない勝ち方であった。

4戦目となった芝1,400mのオープン特別の菩提樹ステークスで2着と初めて敗れた後に、夏を休養に充てる。

秋緒戦は3歳限定のダートG3・ユニコーンステークスが選ばれた。

ここで、前走で古馬に勝っていた同世代の雄・ワシントンカラーを全く相手にせず2馬身半の圧勝。

次の路線が注目されたが、芝のG2・スワンステークスが選ばれる。

このレースでは、岡部騎手が同じ藤沢厩舎で気性の難しいシンコウキングの手綱を優先させため横山典弘騎手に乗り替わったが、その影響を微塵も感じさせず、古馬のスギノハヤカゼに3/4馬身差をつけて完勝。

そのまま本番のG1・マイルチャンピオンシップも横山騎手の手綱で、2馬身半突き抜けた。

砂の王子が、芝の王に君臨した瞬間だった。

そして師走の電撃戦、G1・スプリンターズステークスで岡部騎手の手綱に戻ったタイキシャトルは、ここでも並み居る歴戦のスプリンターを相手に1馬身3/4差の圧勝。

同一年度のマイルチャンピオンシップ、スプリンターズステークスの連勝は、史上初の快挙となった。

藤沢師が北米で起こそうとした2度の「ブリザード」は、旅立ちと帰還を意味する「シャトル」へと線はつながっていた。

 

砂か、芝か。

アメリカか、ヨーロッパか、それとも。

 

さあ、お前はどこへ連れてってくれるんだ、シャトルよ。

観る者にそんな思いを抱かせる走りで、タイキシャトルは平成9年の最優秀短距離馬のタイトルを獲得した。

 

 

 

 

年明けて平成10年。

この年の始動戦として出走した5月16日のG2・京王杯スプリングカップを、タイキシャトルは1分20秒1のレコードタイムで圧勝する。

前年、タイキブリザードがマークしたレース/コースレコードをコンマ4秒も短縮したそのタイムに、何かを予感せずにはいられない走りだった。

そして、6月14日。

タイキシャトルは海外への試金石となる、第48回安田記念を迎えた。

折しも関東甲信は6月早々に梅雨入りが宣言されており、前日から間断的に降り続いた雨により、安田記念当日の東京競馬場は芝・ダートともに不良馬場のコンディションでの開催となっていた。

昼前から降り始めた雨は次第にその雨足を強め、霧がかかったように視界も悪くなっていく。

安田記念と同じ芝1,600mで行われた当日の第5レース・500万下の勝ちタイムが、1分38秒3という極度に遅いタイムが記録されている。

 

「不良馬場」というより「極悪馬場」とも言える、脚下の悪い中でのレースは避けられそうにもない。

この安田記念まで、タイキシャトルは良馬場でしか走ったことはなかった。

波乱の雨となるのか、それとも「シャトル」の出発を祝う雨となるのか……そんな思いが交錯する大雨の中での決戦。

しかしファンは、単勝1.3倍の1番人気という圧倒的な支持を、旅立つタイキシャトルへの餞別として授けた。

 

続く2番人気に、4月のG3・ダービー卿チャレンジトロフィーを勝ち、芝のマイル戦は6戦5勝2着1回の成績を誇っていた気鋭の4歳・ブラックホークと後藤浩輝騎手。

3番人気には、外国馬で前哨戦のG2・京王杯スプリングカップを4着と叩いて出走してきたアライドフォーシズと横山典弘騎手。ケンタッキーダービー馬・Real Quietの近親でもあり、英米を中心としたマイル路線を走ってきた強豪だった。

海外からはもう一頭、香港からオリエンタルエクスプレスとD.ホワイト騎手が出走。

そして4番人気は前年、G1・NHKマイルカップを含む重賞4連勝を記録した天才少女・シーキングザパールと武豊騎手。

続く5番人気に、前年3歳で安田記念に挑戦したスピードワールドと柴田善臣騎手が続く。

その他にも、皐月賞馬・イシノサンデーや、実績馬のビッグサンデーやオースミタイクーン、エイシンバーリンなどといった、当代の名マイラー、スピード自慢、韋駄天といった多士済々の17頭が国内外から集った。

 


 

G1のファンファーレが、大雨の降り続く東京競馬場に響く。

第2コーナー奥のスタート地点から、一斉に17頭が飛び出す。

 

外から香港のオリエンタルエクスプレスが好ダッシュでハナを切りにかかるが、内から韋駄天・エイシンバーリンがそれに絡んでいく。

白の帽子のタイキシャトルは、極悪馬場でもこれまと変わらないテンの速さを見せ、楽にその2頭の後ろにつけ、岡部騎手が少し手綱を引いているようだった。

その後ろにブラックホーク、イシノサンデー、ビッグサンデーが好位に取り付き、最内では外国馬のアライドフォーシズがタイキシャトルを見る形で道中を進める。

人気のシーキングザパールは後方から、白い馬体のスピードワールドはシンガリからレースを進めている。

 

3コーナーをカーブして、徐々に詰まってくる馬群。

タイキシャトルと岡部騎手は5、6番手あたりを悠然と進む。

降りしきる大雨、白くぼやけた視界。

 

その中で17頭は4コーナーを回って、最後の直線を迎えた。

大雨で荒れていても最内の経済コースを取るのか、それとも多少距離をロスしても状態のいい外目のコースを取るのか。

それぞれの騎手の思惑が交錯し、大きくバラける馬群。

内ラチ沿いで先行したエイシンバーリンとアライドフォーシズが粘る。

そのすぐ外からロイヤルスズカとヒロデクロスが襲いかかる。

大雨の中、各馬の死力を尽くした走り。

17頭の一完歩ずつに、激しく泥と水しぶきが上がる。

 

息が、詰まる。

残り200m、馬場の4分どころを伸びてくるオリエンタルエクスプレスの脚色がよさそうだ。

そう思った刹那。

 

さらにその外。

 

馬場のど真ん中を伸びてくる白い帽子と緑の勝負服。

一頭だけまるで違う脚色で、並ぶ間もなくオリエンタルエクスプレスを交わす。

岡部騎手の手綱に応えて、さらに伸びる、伸びる。

その視界の先に捉えていたのは、1マイル先のゴール板だったのか、それとも遠く何千マイル先の海を渡った異国のゴール板だったのか。

そんな夢想も許してくれそうな、大雨の中の快勝。

タイキシャトル1着。

2馬身半差の2着には粘ったオリエンタルエクスプレス、そこからさらに2馬身離れた3着にヒロデクロス。

タイキシャトルの短距離G1・通算3勝目は、昭和における「マイルの皇帝」ことニホンピロウイナーに肩を並べた。

チーム・タイキ。

藤沢和雄厩舎。

岡部幸雄騎手。

そして、タイキシャトル。

 

日本を背負うのに十分すぎる役者が、ここに揃った。

昭和60年に安田記念が「グレード・ワン」となってから、史上2番目に遅い勝ちタイム、1分37秒5。

それを最速と信じるのに十分すぎる、雄弁なる勝利。

さあ、いよいよだ。

シャトルよ、飛び立て。

異国の芝の上で、その脚を世界のライバルたちに見せつけろ。

そして何より、その名の通り、無事に帰ってこい……。

タイキシャトル、大雨の中の最強。

 

第48回安田記念を制す。

 

 

その大雨の中の安田記念を勝った後、海外遠征のレースとして選ばれたのはフランスのマイルG1の最高峰、ジャック・ル・マロワ賞となった。

フランス北西部のリゾート地・ドーヴィルで真夏に施行される、伝統の欧州マイル王決定戦。

平成10年8月16日。

この伝統のマイル戦を、タイキシャトルと岡部騎手は1番人気を背負って、見事に先頭でゴールを駆け抜けた。

折しもその前週の8月9日に、同じドーヴィルで行われた1,300mのG1・モーリス・ド・ギース賞を、武豊騎手とシーキングザパールが制しており、2週続けての快挙の報に国内の競馬ファンは沸いた。

 

世界が変わった、2週間。

国内に戻ったタイキシャトルは、11月のG1・マイルチャンピオンシップを5馬身差で圧勝、昨年に続いて連覇を達成する。

引退レースとなった12月のG1・スプリンターズステークスも、昨年に続く連覇を狙ったが、マイネルラブとシーキングザパールに競り負け3着と、生涯初めて連を外すことになった。

それでも、海外遠征を含んだ通算の戦績は13戦11勝2着1回、うちG1を5勝。

これ以上を望むべくもない。

 

タイキシャトルは、日仏のG1を3勝した実績により、史上初めて短距離馬としてJRAの年度代表馬に選出された。

さらには、外国産馬として初めて顕彰馬として殿堂入りする栄誉にも浴した。

 

種牡馬入りした後は、NHKマイルカップを勝ったウインクリューガー、フェブラリーステークスを制したメイショウボーラーなど、芝・ダートを問わずその豊かなスピードを16年に渡り、後世に伝え続けた。

 

 

平成10年、第48回・安田記念。

煙るような大雨の中に、「最速」と「世界」を見た、あの日。

 

21世紀に入り「モーリス」という怪物を日本競馬が得てもなお、「史上最強マイラー」談議には必ずその名が挙がる存在であるタイキシャトル。

その偉業は、平成という時代が閉じようとも、なお色褪せない。

素晴らしい戦績もさることながら、「日本調教馬でも欧州の大レースを勝つことができる」ということを現実に示したことが偉業なのだろう。

 

そしてそれは、タイキシャトルという才能を得たこと「だけ」で成し遂げられたものではない。

藤沢師が、太平洋を2度に渡って起こそうとした「ブリザード」。

その息吹が、遠くフランスの地で大輪の華を咲かせたように思う。

シンガリ負け、大差負け、捲土重来の挑戦も大敗。

それでも。

挑戦することを、止めない。

失敗の恥ずかしさや、誹謗中傷を怖れず、ハクチカラ以降の関係者が連綿と紡いできた挑戦の系譜を、止めなかった。

飽くなき挑戦を続ける限り、失敗など存在し得ないから。

そう考えるなら、挑戦すること自体が、すでに成功だとも言える。

 

梅雨時のぬかるんだ不良馬場を見ると、私はそんなことを想う。

あの平成10年。

大雨の中の安田記念の、タイキシャトルの雄大な走りを思い出しながら。

 

文・大嵜直人

写真・かず

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