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初めて世界に肩を並べた日~日本中が驚いたカツラギエースの逃走劇~

 

『番狂わせ』という単語で、どんなことをイメージするだろうか?

もちろん内容は人それぞれだと思うが、おそらく当然だと思われていた結果が覆されることになるシーンを思い浮かべることだろう。そしてその多くは、スポーツでの出来事なのではないだろうか。

 

1980年のレークプラシッドオリンピックのアイスホッケー。アマチュアメンバーで構成されたアメリカが、史上最強チームと呼ばれていた当時のソ連に4-3で勝った『ミラクルオンアイス』。

サッカーファンであれば、1996年のアトランタオリンピックで日本代表が世界王者であるブラジルに勝った『マイアミの奇跡』。

アメリカンフットボール好きならば、2002年2月に行なわれたスーパーボウル。圧倒的に有利とされていたラムズのハイパーオフェンスを抑えて、ペイトリオッツが残り0秒で勝った試合も、語り継がれている。

 

そして、競馬でもこの『番狂わせ』ということが、しばしば起きる。

今回は、1980年代の競馬史における『番狂わせ』の1つとされている「1984年のジャパンカップ」にスポットをあててみたい。

 

さて、その1984年とは、どんな時代だっただろうか?

43歳の誕生日に世界で初めて厳冬期のマッキンリー単独登頂を果たした植村直己が、その翌日に消息を絶ったのが、その2月の出来事。

5月5日のこどもの日には、近鉄バファローズの鈴木啓示投手が史上6人目となるプロ野球通算300勝を達成。

7月末からはロサンゼルスでオリンピックが行なわれ、柔道の山下泰裕選手が足をケガしながらも金メダルを獲得したシーンに、日本中が感動に沸き返った。

長年、日本の紙幣に印刷されていた聖徳太子が姿を消して、福沢諭吉の10,000円札、新渡戸稲造の5,000円札、夏目漱石の1,000円札が発行されたのは、同年11月だった。

 

そして競馬界の1984年は、シンボリルドルフ一色と言っても過言ではなかった。前年のミスターシービーに続いての三冠馬となったが、さらに加えて「史上初の、無敗での三冠制覇」を成し遂げて大騒ぎとなった。しかも、この2年連続で誕生した三冠馬2頭がジャパンカップで対決することになり、競馬ファンは口々に夢を語った。

「いよいよ日本の馬が、ジャパンカップを勝つときが来た」と。

 

1981年に創設された、競馬のジャパンカップ。けれど、日本の競馬ファンの期待とは裏腹に日本馬は惨敗を続けた。今でこそ、日本馬がこのレースを勝ち続けているものの、当時は

「20世紀中に、ジャパンカップを日本馬が勝つことは不可能だ」

とする悲観的な意見を述べてもそれほどおかしく聞こえないほど、簡単外国馬に勝たれてしまう状況だった。

1983年のジャパンカップでは、日本のキョウエイプロミスがレース中にケガを負いながらも、自らの競走生命と引き換えに2着に入った。

そして翌年は日本が誇る最強の2頭、三冠馬であるミスターシービーとシンボリルドルフが出走をするのだから、その盛り上がりは凄まじかった。当時の連勝馬券は、枠連しか券種がない時代。シンボリルドルフはオーストラリアからの遠征馬ストロベリーロードと同じ7枠に入ったけれど、多くの日本人は三冠馬2頭によるワンツーフィニッシュを思い描いていたのであろう。

「シービー・ルドルフ一点勝負。日本の夢」

と書かれた応援幕が、府中のパドックで揺れていた。

このとき、10番人気のカツラギエースに期待をしているのは、ごく一部の人だけだったはずだ。

 

そのカツラギエースが積極果敢に先頭に立って、レースが始まった。後続を10m以上引き離す大逃げを打っていたものの、後続の騎手や競馬場に居た観衆、馬券を買っている多くの人は

「どうせカツラギエースはバテる。日本の三冠馬2頭が、どこから仕掛けるのか?」

と考えていた。

けれど、このジャパンカップでのカツラギエースは、まるで深まりゆく秋の景色を楽しむような軽快な逃げを見せていた。騎手と馬を結ぶ手綱はいつもより30cm長く持たれていた。普段と違うその手綱の緩さのせいか、カツラギエースの走りには多くの逃げ馬に見られる限界に挑むような必死さが微塵も感じられないものだった。

 

だからだろうか?

直線に向いてもカツラギエースはバテなかった。

それどころか、騎手の鞭が入ると、さらに粘り腰を見せることになる。

 

バテそうで、バテない。交わされそうで、交わされない。

 

結局、カツラギエースはどの馬にも先頭を譲ることなく、東京競馬場の2400mを見事に逃げ切った。それはつまり、ジャパンカップ史上初めて日本の馬がこの国際競走を制したことを意味する。

しかし、日本馬が勝ったことは喜ばしいことなのに、その立役者は多くの人がスポイルしていたカツラギエースという馬だった。レース直後の東京競馬場には、不思議な静寂が訪れたという。

それでも、しばらくするとカツラギエースを称える大きな拍手が競馬場を包み込んで、この『番狂わせ』は幕を閉じたのだった。

 

このジャパンカップの後、カツラギエースが出走したのは暮れの名物レース、有馬記念。

再度、ミスターシービー・シンボリルドルフという2頭の三冠馬と対戦することになったカツラギエースは、シンボリルドルフの2着に入った。

この時にはもう、その結果に驚く人は少なくなっていた。

多くの人にカツラギエースの実力は認められ引退、競馬場を後にした。

 

カツラギエースは2000年に心臓発作のため、21歳でこの世を去った。

北海道静内町にある冬沢牧場で眠るカツラギエースは、今年も天国からジャパンカップで日本馬が活躍することを願ってくれていることだろう。

競馬を愛する日本人は、初めてジャパンカップを勝ったこの馬を、せめてこの時期だけでも良いから、リスペクトして欲しいと願って止まない。なぜなら

「多くの日本人の前で、外国馬相手に初めてG1を勝利する姿」

を見せてくれたこの馬の偉大さは、何年経っても決して色褪せることは無いのだから。

文・ポラオ

写真・ウマフリ写真班

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