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ミホノブルボン 栗毛のサイボーグ

血筋や生まれが特別ではなくとも努力で栄光を掴みとる……という物語には、胸を打たれるものがあります。

人間の世界に限らず、競馬でも然り。

今回はそうした馬たちの中でも特に、努力によって道を切りひらいたと言われている、一頭の名馬をご紹介します。

 

その名は、ミホノブルボン

 

日本競馬に燦然たる功績を残した栗毛の名馬です。

※なお、年齢は当時の数え年で表記します

 


 

1 選りぬきではない血統

 

ミホノブルボンは1989年4月25日、北海道門別の原口牧場で生を受けます。

父はマグニテュード、母はカツミエコー。

後世にも名を知られる競走馬は、多くの場合、何かしらの意図的な配合をされていたり、父母のどちらかが繁殖としての実績を持つという場合が多いものです。しかし、本馬はそうではありませんでした。

そもそも母であるカツミエコーからして生産者の理想どおりの血統ではなかったようです。

というのも、いつの時代も同じく、すべての生産者が思うとおりに人気種牡馬の種を手に入れられるわけではないからです。カツミエコーの場合もその例に漏れず、本来であれば当時大変人気のあったダンディルートを父としたいところがかなわず、ダンディルートと同じ父をもつ代替種牡馬のシャレーを配合することになった……という経緯のある馬でした。

結果、カツミエコーは現役時代を地方で1勝を挙げるにとどまり引退します。

さらに繁殖に上がっても、やはり理想を言えば当時の人気種牡馬だったミルジョージを配合相手にしたいところでしたが──そちらもかないませんでした。そこで同様に、ミルジョージと父を同じくする代替種牡馬・マグニテュードを付けることになり、誕生したのがミホノブルボンです。

 

つまりは、父も母父も代替種牡馬として選ばれた、というわけです。

 

ただし、父マグニテュードは自身こそ未勝利馬ながら種牡馬として本馬誕生の時点で桜花賞馬エルプスを輩出している実績馬ではありました。また、その血統も英ダービー・キングジョージ・凱旋門賞を制したミルリーフに1000ギニー・英愛オークスの勝ち馬アルテスロワイヤルを掛けあわせた「超一流」とも呼べる良血です。

また母のカツミエコーも、祖母カミヤマトが3歳牝馬にして有馬記念に優勝したスターロツチの半妹であり、この点で「理想どおり」とまではいかなくとも、しっかりと、筋の通った血統の持ち主でした。

それでも市場での評価は高くはなく、取引価格は700万。サラブレッドとしてはお買い得な部類に入る価格で落札されることとなりました。

こうして所有者はミホノインターナショナルとなり、本馬はミホノブルボンと名付けられました。

 

 

2 名伯楽との出会い

 

3歳になり、栗東の戸山厩舎に預けられたミホノブルボン。

当時、美浦と栗東の力関係は、現在とは逆に東高西低──活躍するのは関東馬の方が圧倒的に多い時代でした。今では栗東の代名詞とも言える坂路も当時は短かったうえ、コース調教が主流だったためにそれを利用しようという調教師の数も今と比べると非常に少なかったようです。

その中で、いち早く坂路調教に目をつけたのが戸山為夫師でした。

戸山師は馬に強い調教を課すことで知られ、この時点ですでにダービー馬タニノハローモアを出すなど十分な実績を挙げていましたが、それに飽くことなく坂路調教に可能性を見いだします。そこには「ハードトレーニングによって競走馬は距離の限界を克服し得る」という信念があったようです。

 

その戸山師はミホノブルボンをこう評価しました。

──ミホノブルボンは、天性のスピードに恵まれたスプリンター、と。

 

生来の能力はクラシック向きではありませんが、逆の考え方をすれば調教によってスタミナを補えば非常に優れた競走馬になるということでもあります。

師がどの時点で本馬を真に評価をしたかは、我々には想像を巡らせるしかありません。しかし師は、己の信念を体現する「宝石の原石に出会った」と本馬を回顧しています。これに間違いはないでしょう。どんな競技もハードトレーニングには故障のリスクが付きまといます。そしてこと競馬となると、そのリスクが非常に高くなります。

事実、トレーニングの間にインターバルを挟むなど健康面のケアを施してなお、同厩舎でも故障は決して少なくなかったということからも、その厳しさは伺えます。

それを、ミホノブルボンは、ことごとく耐えぬきました。

坂路調教の本数は1日3本から4本、4本から5本へと増えていきました。さすがに5本は堪えたようで体調を崩し、継続的に行われたのは4本となりましたが、それでも驚異的な調教量です。

 

厳しいトレーニングを課されるごとに本馬の身体は鍛えぬかれていき、やがて筋肉の鎧を纏うようになりました。坂路調教500mでも30秒を切るという古馬顔負けのタイムを叩きだし、競馬関係者の間でも評判となります。

 

 

3 出陣

 

したがってデビュー戦となった中京競馬場の芝1000m戦では単勝1.4倍の圧倒的1番人気に支持されました。

鞍上は小島貞博騎手。その後も、ミホノブルボンが出走した全てのレースで手綱を取ることとなる名手です。

ここではスタートで痛恨の出遅れを喫したものの、道中まで最後方を進みながら終盤から一気に進出し、上がりの3ハロンを33.1秒という、現在でも相当に速い部類に入る末脚を繰りだして優勝しました。

勝ちタイムが当時の3歳コースレコードを更新する58.1だったことから、さらに評価は高まります。

続けて次走、東京競馬場500万下芝1600mで2着に6馬身差をつけて快勝すると、この年から3歳牡馬王者決定戦となった大一番の朝日杯3歳Sでは単勝1.5倍の主役に踊りでます。

 

そして迎える、朝日杯3歳S。

ミホノブルボンは好スタートを決めた後、翌年のクラシックを見据えた鞍上の判断により、後の京成杯馬エーピージェットらをしたがえ2番手につけて直線に入りました。

 

ところが後方から、京成杯3歳Sを勝利し4戦3勝で2番人気に推されていたヤマニンミラクルが末脚を伸ばしてきます。

ミホノブルボンも加速はしているものの、徐々に差を詰められていきます。

ついにハナ差まで迫られましたが、そこで何とか粘りきって接戦を制しました。

 

これで同年は3戦3勝。JRA賞でも3歳最優秀牡馬に選ばれます。

その結果に、関係者はみな喜びに湧いたかのように思われました。

しかし戸山師はこのレースにおける小島騎手の騎乗と勝利内容に納得しなかったようです。無理に抑えつけたがゆえに本馬のスピードが殺されてハナ差まで詰めよられた、つまりは逃げるべきで、クラシックでも通用するはずだとの見解でした。

 

 

4 クラシックを目指して

 

身近で本馬に接してきた騎手でも不安があったのですから、記者やファンが疑問に思うのは当然の流れだったのかもしれません。

スプリンターが完成の早さでマイルまではこなせても、クラシック戦線となれば他馬も成長し、距離も延びます。

朝日杯の辛勝を「距離の限界」と捉える人がいても、不思議ではありません。

おまけに本馬は4歳をシンザン記念で始動する予定だったのが捻挫で回避し、その間に5戦3勝のノーザンコンタクトが出現していました。

よって、ステップレースに選んだスプリングSは重馬場もあり、生涯唯一の2番人気に甘んじます。

 

レースでは、鞍上の小島騎手が逃げを選択し、敢然と先頭に立ちます。道中もペースを落とさず直線に入ると、後続をちぎる一方で最後は2着に7馬身差をつけての圧勝。

ハードトレーニングの成果が、段々とファンの目にも映る形で表れてきました。

 

なお、このレースでは後に日本競馬界屈指のスプリンターとなるサクラバクシンオーも出走しましたが、12着に敗れています。

形こそ違えど「スプリンター」と評される2頭はこの1レースでのみ対峙し、以降まったく別路線を歩むことになるのでした。

 

かくして本馬は、皐月賞に挑みます。

単勝1.4倍の1番人気ではありましたが、前走より距離は200m延びるうえに馬場は良発表ながら前日の雨で渋り気味でした。

それにも関わらず臆することなくスタートからハナを切り、2番手以下16頭を引きつれて前半1000mは59秒8で通過。

スタートから1400mまでのラップは12.7-11.1-11.6-12.5-11.9-12.1-12.4。

2ハロン目と3ハロン目で飛ばして以降は、一度息を入れながら、12秒台のタイムを刻んでいます。

これでは他馬はついていけるわけがありません。直線、後続に追走する力は残されておらず、本馬が先頭でゴールしました。

タイムは2分1秒4。

2馬身半差の2着に後のNHK杯馬ナリタタイセイ、4着に弥生賞馬アサカリジェント、5着にシンザン記念馬マヤノペトリュース、6着に古馬になって天皇賞・秋で2着するセキテイリュウオーが入りました。

 

 

5 世代の頂点へ

 

さて、皐月賞を制覇し、次はいよいよ3歳馬の頂点を決める日本ダービー。

1800mと2000mは同じ中距離カテゴリに入りますが、2400mはクラシックディスタンスに区分けされるように別物です。

これより少し前の時代、関係者からスプリンターと見なされたニホンピロウイナーが2000mで実績を挙げている(朝日CC優勝、天皇賞・秋3着)ように、ここまでは能力や完成度の高さで押しきった馬もありました。

しかし、その先はまったくの未知の領域です。

この年の春はなぜか雨が多く、ダービー当日の馬場は稍重。しかも、本馬は外目の15番。

それでも単勝2.3倍の1番人気に支持され、スタートすると距離延長をまったく恐れることなく先頭に立ちます。

 

最初の2ハロンは12.8-11.7と飛ばして2番手との差を約1馬身ほどに保ち、続いて道中を残り3ハロンまでを12.3-12.2-12.2-12.2-12.5-12.5-12.3と、まるでサイボーグのように1ハロン12秒台前半のペースを刻みながら以下17頭を率いていきます。

馬券上の支持こそあれど、果たして最後までスタミナが持つのか半信半疑で成り行きを眺めていたファンも多かったでしょう。

くわえて最後は500mと、中山よりはるかに長い東京の直線です。

 

──しかしミホノブルボンの耐えてきた調教は、ここで力尽きるようなものではありませんでした。

 

鍛えあげられた筋骨隆々の馬体が、逆に他馬を突きはなし長いターフの絨毯を堂々と先頭で駆けぬけていきます。そして本馬が後続に前走以上の4馬身をつけてゴール。

馬場が向いたわけでも、スローペースが味方したわけでも、枠に恵まれたわけでもありません。

稍重の中、自らミドルペースを作り、外枠の不利を覆したうえで他馬に決定的な差をつけ、生来のスプリンターでも努力によってクラシックディスタンスを制し得ることを証明したのです。

 

勝ちタイムは2分27秒8。

当時としては、とても優秀なものでした。

なお2着にライスシャワー、3着にマヤノペトリュース、4着にマチカネタンホイザ、7着にナリタタイセイ、9着にセキテイリュウオー、10着にヤマニンミラクル、12着に後のエプソムC馬サクラセカイオー、15着に重賞2勝するウィッシュドリームが入り、この年の春のクラシックは幕を閉じました。

 

 

 

6 三冠への挑戦

 

6戦全勝で無敗の二冠馬となると、秋は自然と菊花賞を目指すことになります。

秋緒戦の京都新聞杯は2200mの日本レコードとなる2分12秒0で勝利し、この時点ですでに古馬一線級にも引けをとらない能力を示していました。

前年に同じく無敗の二冠馬となっていたトウカイテイオーが、骨折により同競走に出走できなかったこともあり、シンボリルドルフ以来2頭目となる無敗の三冠馬が期待もされました。そうした盛り上がりから、ミホノブルボンは単勝1.5倍の圧倒的一番人気に支持されました。

しかし三冠最終戦の菊花賞はダービーよりさらに距離の延びる3000mです。関係者に不安はあったことでしょう。

 

レースのスタートが切られると、それが最悪の形で表れてしまいました。

戦前から逃げ宣言をしていたキョウエイボーガンが実際に馬群の先頭に踊り出、本馬の前に立ったのです。

実はキョウエイボーガンは前走の京都新聞杯でも逃げる予定だったのですが、出遅れたためにそれがかなわず、菊花賞で初めて本馬の前につけることになっていました。

これまでミホノブルボンは、距離不安説が囁かれていたせいもあり、自らも玉砕する覚悟で逃げを打つ相手はこれまでいませんでした。

目標にされる強い逃げ馬の宿命ではあるものの、経験のない展開に本馬はペースを乱し先頭に立とうとしてしまいます。

鞍上の小島騎手が、ハナを切るキョウエイボーガンの3馬身後ろの位置までどうにか抑えますが、3番手との差は5馬身ほどもある明らかなオーバーペース。直線に入る頃には本馬が先頭に立ちましたが、いつものような余力は残されていませんでした。

そして後方外目から細身の黒い馬体が襲いかかってきます。古馬になってから天皇賞・春を2勝する稀代のステイヤー、ライスシャワーです。皐月賞では8馬身、ダービーでは4馬身あった差を、夏の成長を経て京都新聞杯では2馬身半差にまで縮め、得意とする長距離の舞台で真価を発揮してきたのです。ミホノブルボンはあっという間に差しきられ、同時に追いうちをかけるようにのちダイヤモンドSなど重賞4勝するマチカネタンホイザが内から迫りますが──そこは、ミホノブルボンが意地を見せます。一度かわされたものの、何とか差しかえしたのです。しかし、そこがゴールでした。

1馬身半差の2着に敗れ、三冠の夢は潰えました。

それでも走破タイムは3分5秒2と従来のレコードを更新する優秀なもの。競馬にタラレバは禁物と言いますが、もし他馬を前に置く展開をどこかで経験していたら……もしくは菊花賞本番で無謀なまでの逃げを打つ馬がいなかったら……あるいは同世代に卓越したステイヤーがいなければ……。その時は、どうなっていたでしょうか?

数々の不利を受けて、1馬身半差の2着ですから、もしかすると──。

しかし、今となっては想像するしかありません。

 

 

7 遺したもの

 

その後、本馬はジャパンCでトウカイテイオーとの対決を目指すも、脚部不安により年内休養に入ります。

その年はJRA年度代表馬と最優秀4歳牡馬に選ばれ、以降も復帰を目指しますが、年明け早々に骨膜炎を発症。その後さらに骨折し、1994年1月に現役生活に別れを告げます。

引退後は中央での重賞勝ち馬こそ出せなかったものの、2012年まで種牡馬を続けます。

後年になっても、現役時代に鍛えあげた筋肉を維持してファンを視覚的にも楽しませていました。

最期は2017年2月22日に老衰。

サラブレッドとしては大往生の28歳で、その生涯を閉じました。

 

 

文・シングーYK

写真・s.taka

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