「一年(ひととせ)に 一夜と思へど 七夕の 逢い見む秋の 限りなきかな」
千年の昔の歌人・紀貫之による、七夕をテーマにした和歌である。
「一年に一度だとは思うのだが、二人が出逢う秋の七夕(旧暦において7月は秋の始まりの月)の夜空は、これから限りなく何度も巡ってくるのだろうな」
という、七夕の夜の情感を詠った和歌。

一年に一度という悲恋に見える物語も、未来永劫に続くと思えば、決して悲しいものではないのかもしれない。

天の川を隔てて輝く牽牛星と織女星を眺めながら、千年以上も昔に生きた歌人が抱いた情感を、この令和の時代に想うことは趣深い。

千年の昔の平安の時代とまでとはいかないが、過ぎ去った平成の時代の七夕の思い出を、少し綴ってみたい。

平成10年、夏の福島開催の終わりを告げる、七夕賞。
1年ぶりどころか、3年5か月ぶりとなった──老雄と勝利の邂逅までの道のりを。


時は、平成3年。
北海道新冠の村本牧場で、トウコウキャロルという母馬から一頭の牡馬が誕生した。
父はイタリアで産まれた凱旋門賞馬・トニービン。種牡馬として日本に輸入されて、供用開始2年目にあたる産駒であった。

トニービンはその前年にあたる初年度産駒から、春の牝馬クラシック2冠を制したベガや日本ダービーを勝ったウイニングチケットを輩出し、のちにリーディングサイヤーまで獲得する名種牡馬となった。

母の父は、国内で1980年代に活躍し、種牡馬としてもG1馬を輩出したホスピタリティ。
ホスピタリティも、その仔のトウコウキャロルも、「トウコウ」の冠名で知られた渡邊喜八郎氏の所有馬だった縁もあり、トウコウキャロルが産んだその牡馬は、喜八郎氏の息子である渡邊隆氏がオーナーとなった。

そのトウコウキャロルの産駒は、渡邊隆氏の所有する多くの他の競走馬と同様に、氏の愛好するサッカーに着想を得て名付けられた。 

オフサイドトラップ。

サッカーにおける守備の高等戦術の名を戴いたその牡馬は、順調に成長し、美浦・加藤修甫厩舎に入厩することになった。

デビューは平成5年12月の中山開催。
芝のマイル戦に出走し、中館英二騎手を鞍上に中団から鋭く伸びるも半馬身及ばず2着。
中1週で臨んだ芝2,000m戦は、安田富男騎手に乗り替わり、番手で競馬をするも逃げ馬を捕まえられず2着。
ようやく訪れた初勝利は、年が明けた平成6年の1月の未勝利戦だった。

初めてダート戦への出走となったが、1番人気に支持され、これを逃げ切って初勝利の凱歌を揚げる。
続く500万下のセントポーリア賞では、一転して中団からレースを進め、直線でのちのオークス馬・チョウカイキャロルに2馬身半の差をつけて連勝を飾る。

こうなると、クラシックを期待する声が聞こえてくる。

同年3月19日、皐月賞トライアル・若葉ステークスに出走したオフサイドトラップは、前評判の高かった、同じトニービン産駒のエアダブリンと対戦。ここでオフサイドトラップは、初勝利を挙げた未勝利戦と同様に逃げを打ち、エアダブリン以下の追撃を振り切り、見事に3連勝を記録した。
3連勝で一躍クラシックの有力候補になったはずのオフサイドトラップだったが、この平成6年のクラシックの注目は、一頭の黒鹿毛の牡馬に注がれていた。

白いシャドーロールに桃・紫山形一文字の勝負服。
そう、あのナリタブライアンだった。

前年のG1・朝日杯3歳ステークスなど重賞3連勝を含む4連勝中であり、そのどのレースも圧倒的な強さを見せる勝ち方で注目を集めていた。
迎えた4月のクラシック第一冠・皐月賞で、1.6倍の1番人気に支持されたナリタブライアンはレコードタイムで中山の直線を突き抜ける。さらに5月の日本ダービーでも、一頭だけ別次元の豪脚を大外から繰り出し、春のクラシック二冠を達成した。

一方の、オフサイドトラップ。
皐月賞では最後の直線でそれまでのような末脚の伸びが見られず、7着と生涯初めて掲示板を外し、さらに日本ダービーでは道中での不利もあって8着と、2戦続けて馬群に沈んだ。

歴史的名馬と同世代に居合わせた不運を嘆く、4歳の春。
その不完全燃焼の春を取り戻すためか、オフサイドトラップは夏の蝉の声を聞いても休養には入らず、必勝を期して7月のG3・ラジオたんぱ賞に出走した。

ここでは2番人気に支持されたが、勝ち馬ヤシマソブリンから0.8秒差の4着に敗れる。
失意に追い討ちをかけるように、レース後に右前脚に腫れが見つかった。

診断の結果は、屈腱炎。

管骨の裏側にある屈腱の一部の腱繊維が切れたり、変性を起こすことにより、出血と炎症を起こす病である。海老の腹のように患部が腫れることから、「エビ」「エビハラ」とも呼ばれ、一度発症すると治療に長い時間がかかり、また再発が起こりやすく、完治が難しいとされる「競走馬の不治の病」。
枚挙に暇がないほどの幾多の名馬が、過去にこの病で引退に追い込まれてきたのが、屈腱炎である。当然、引退も視野に入る怪我だ。

だがオフサイドトラップの才能を信じる陣営は、休養し治療することを選択する。
未だ見ぬ、この馬がタイトルを獲る瞬間を信じて。

それは、馬自身にとっても、陣営にとっても、長い長い脚元の病との戦いの始まりを意味した。


夏の盛りには煩いほどだった蝉の鳴き声もいつしか途絶え、長袖の服を衣装ケースの奥から引っ張り出す時期が訪れた。山々が燃えるように色づく錦秋を過ぎ、やがて吐く息が白む季節になった。

時の流れとは偉大なもので、大きな怪我も傷ついた心も、ときに巡る季節が癒してくれることがある。
さりとて、過ぎ行く時間を癒しに変えたのは、オフサイドトラップを担当した椎名晃厩務員をはじめとした、スタッフの尽力に依るものが大きかっただろう。

復帰できる確証もない中、毎日患部と向き合う日々を支えたのは、彼らがオフサイドトラップの才能を信じたからなのだろうか。

「何かを信じる」ということは、究極のところ、「それを信じている自分を信じる」ことに他ならない。

彼らは、信じたのだと思う。
オフサイドトラップを、そして彼ら自身を。

1年前にデビューを果たした師走の中山競馬場に、オフサイドトラップは戻ってきた。
オープン特別のディセンバーステークスを3着と、上々の復帰戦。
続く平成7年の年明けのG3・日刊スポーツ賞金杯では8着と敗れるも、2月のオープン特別・バレンタインステークスでは好位からレースを進め、最後の直線で後続の追撃をハナ差振り切って勝利。

皐月賞トライアル・若葉ステークスの勝利から、約11ヶ月が経っていた。
陣営の喜びは、どれほどのものだったのだろう。
しかし、勝利の激走の代償か……レース後に、右前脚の屈腱炎が再発する。

さらに悪いことに、痛めていた右前足を庇ってなのだろうか、左前脚にも不安が出るようになってしまった。
再び始まる、「不治の病」との戦い。
しかも今度は、「両手」の痛みとの戦いの始まりである。

競走馬が最も充実するといわれる5歳のシーズンは、もうすぐに春を迎えようとしていた。

病を、治す。
志を、立てる。
この人を、愛する。
夢を、信じる。

人が何がしかの決意をしたとき、往々にしてその決意を試すような出来事が起こる。
しかもそれは、ようやくその決意による結果が見え始めてきた頃に、よく起こる。

病が、再発する。
志を、信じられなくなるような事が起こる。
愛する人に、裏切られる。
大切な人から、夢を反対される。

運命の神様がいらっしゃるのかどうか分からないが、もしいたとすればその神様は「テスト」好きなのかもしれない。

「ほんとうに、治すつもりある?」
「ほんとうに、その志を信じてる?」
「何があっても、その人を愛せる?」
「誰に反対されても、その夢叶えたい?」

まるで、そんな意地悪な問いかけをするように、時に「試される」出来事は起こる。オフサイドトラップと彼の陣営もまた、そんな「テスト」と向かい合う運命にあったのだろうか。

しかも、一度や二度ではなかった。

オフサイドトラップはバレンタインステークスで約1年ぶりの快哉を挙げた後、また長い戦いに入ることになる。表向きは休養だが、それは「両手」の痛みと、そして自分を疑うことへの戦いだった。

10ヶ月に及ぶ長い戦いの末、オフサイドトラップは三度、師走の中山に戻ってきた。
ディセンバーステークスで復帰し、前年と同じ3着。
しかし、このレース後に、また屈腱炎が悪化しする。オフサイドトラップと陣営は、三度目の戦いに入った。

何度、歓喜と絶望の間を行き来すればいいのか?

それから11ヶ月後の平成8年の秋。

11月の富士ステークスで4着と復帰したオフサイドトラップは、その後G2・アメリカジョッキーカップ4着、G3・東京新聞杯3着、G2・中山記念2着と中距離の重賞で好勝負を繰り返す。
しかし、復帰から7戦目のG3・エプソムカップ6着の後、四度目の「テスト」がやってくるのである。

屈腱炎、再発。

同世代のナリタブライアンは、同じく屈腱炎を患い、この前年に引退していた。
すでに7歳になっていたオフサイドトラップに残された時間は、そんなに多くはないことは、誰の目にも明らかだった。
何度も何度も「テスト」が降り掛かる度に、陣営はどれだけオフサイドトラップの才能と──そして自分自身を信じることを問われたのだろう。

度重なる「両手」の痛みの再発、7歳という年齢、屈腱炎という病……それでも、陣営は諦めなかった。
信じるということは、かくも重く、尊く、そしてひたむきなものなのか。


それから10か月後。
平成10年3月、陣営の懸命なケアにより、脚元の具合が良化してきたオフサイドトラップは、東風ステークスで4着と復帰した。
その後、韓国馬事会杯2着、G3・新潟大賞典2着、G3・エプソムカップ3着と何とも惜しいレースが続く。

──何とか、オフサイドトラップに勝利を。

陣営のその願いを乗せて、次走は夏の福島で開催されるG3・七夕賞に決まった。
鞍上は、これまで主戦だった安田富男騎手が函館で騎乗することもあり、この年絶好調で関東リーディングを走っていた蛯名正義騎手。

乗り替わりでの挑戦となった。
1番人気には、G2・弥生賞勝ちの実績のあるランニングゲイルと武豊騎手。
オフサイドトラップは2番人気に支持され、3番人気には、ダートから芝へ転向後に中距離で安定した戦績を残していたシェラスガイと江田照男騎手が続いた。

レースは最低人気のタイキフラッシュが意表を突く逃げを打ち、ペースを握った。
オフサイドトラップは、それまで好位からレースを進めることが多かったが、この日は人気のランニングゲイルを見るように、ちょうど中団あたりで脚を溜めている。

やがて勝負の4コーナーを周り直線に向くと、ランニングゲイルの手ごたえはなく馬群に飲み込まれていく。
オフサイドトラップが上がってきた。
福島の短い直線をものともせず、末脚を伸ばす。
しかし、道中気持ちよく逃げたタイキフラッシュも、リードを活かして粘る。

届くのか、それともまた届かないのか。

──いや、差し切った。

オフサイドトラップが、差し切った。
タイキフラッシュをクビ差捉えたところが、ゴールだった。
メンバー中最速の、上がり3ハロン35秒6。
8歳にして、重賞初制覇。
前回勝利したバレンタインステークスから、3年と5か月が経っていた。

「両手」の痛みに耐えに耐えた老雄と、何度「テスト」が重なろうともその可能性を信じた陣営。

葛藤あればこそ、歓喜もまた生まれる。
絶望あればこそ、信じる力もまた強くなる。

平成10年7月11日、少し遅れて福島に訪れた七夕は、そんなロマンに満ちた勝利を見せてくれた。

その勝利から4か月後、11月1日の東京競馬場。
勝負の3コーナーで、欅の向こう側で、先頭を快調に飛ばしていた1番人気の栗毛の前脚が、揺れた。
誰しもが声を失った後の沈黙の直線で、シャドーロールを付けたもう一頭の栗毛は伸びた。

七夕賞から新潟記念を連勝して、同じ芝2,000mのG1・天皇賞・秋に臨んだオフサイドトラップだった。
平成競馬界における最も大きな悲劇の一つと、痛みに耐え抜いた老雄の一世一代の栄光が同居してしまった、平成10年の天皇賞・秋。

それでも。

「一年(ひととせ)に 一夜と思へど 七夕の 逢い見む秋の 限りなきかな」

紀貫之が一年に一度と詠った七夕に輝いた、オフサイドトラップ。
貫之が詠んだ歌が千年経っても語り継がれてきたように、オフサイドトラップと陣営の葛藤と絶望、そして歓喜への物語は、七夕の夜が巡ってくる度に語り継いでいきたい。

貫之が歌ったように、これから何度でも。
時代が変わっても。
季節が巡り、七夕がやってくる度に。
今年もまた、福島に七夕賞が、訪れる。

写真:かず

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