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眠れぬ夜の物語 ~2008年スプリンターズステークスに寄せて

 

あら、いらっしゃい。

 

こんな時間に、しばらくご無沙汰だったわね。

……あら、忙しいのはいいことよね。いつも通り?

……はい、それじゃ、いつものマンハッタンで。

珍しいわね、こんな時間に。今日は引きも早かったから、落ち着いて飲めるわよ。

……そう、眠れないのが続いてるのね。

まあ誰でも生きていればいろいろ抱えるし、時には眠れない夜もあるわね。

恋愛、仕事、お金、健康、家族……人の抱える悩みっていろいろあるけれど、眠れないほどの悩みって、今までには想像もしてこなかった方面からやってくる場合が多いわ。

……あらやだ、図星だったかしら?

それじゃ、今日はせっかくだからそんな眠れない夜にぴったりのサラブレッドのお話に付き合ってもらおうかしら。

その名も、スリープレスナイト

 

鹿毛の美しい牝馬だったわ……

 

 

スリープレスナイトの父は、2001年にNHKマイルカップとジャパンカップ・ダートの芝・砂の両方のG1を制した異能の馬・クロフネ。

彼女の名前自体も、父のクロフネからの連想だそうよ。

 

……え?

クロフネとは全く関連がない?

それが、あるの。

 

「クロフネ」といえば、江戸末期に来航したペリー提督の「黒船」。

その当時の世相を描いた狂歌に「泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 たった四はいで 夜も眠れず」という狂歌があるわ。

「上喜撰」とは、宇治の高級茶のこと。

来航した黒船の「蒸気船」とかけて、4隻の蒸気船によって眠れないほど慌てふためく幕府を皮肉った狂歌として日本史の教科書に載るくらい有名ね。

 

その「夜も眠れず」から「スリープレスナイト」という名づけた……そのセンスには脱帽だわ。

名は体を示すとの言葉通り、彼女とパートナーの上村騎手は、幾度となく「スリープレスナイト」を過ごした先に、栄光を掴んだの。

母の父は、ヌレイエフ。北米の大種牡馬で、シアトリカルやパントルセレブルといった芝の中長距離のチャンピオン級も輩出したけれど、本質的には母の父として優れたパワーとスピードを伝えるタイプの種牡馬だったようね。

そんな彼女のデビューは2007年1月7日、京都・芝1,400mの明け3歳の新馬戦。

アンカツこと安藤勝巳騎手を背に圧倒的な1番人気だったけど、ハナ差で惜敗。

2戦目は中1週で同じ京都の芝のマイル戦で同じように1番人気を背負うも、3着に敗れたわ。

 

……そうね、その通り。この時期に未勝利ということは、クラシック戦線に乗ることは難しいわ。

同期にはダイワスカーレットやウオッカといった、のちに牡馬に混じってG1を複数勝つような名牝がクラシック戦線をにぎわせる中、スリープレスナイトの陣営は以後のレース選択をダート路線に変更したの。

砂の感触で父・クロフネの血が騒いだのか、2月の京都・ダート1,200mの未勝利戦で待望の初勝利を挙げるわ。

3月の阪神・500万下での2着をはさんで、5月に再び京都のダート1,200m戦で二つ目の勝利をものにする。

この5月のレースで、彼女は一人のパートナーと出会うの。

それまでの主戦だった安藤勝巳騎手が東京のG1レースに騎乗することから、上村洋行騎手に乗り替わりでの勝利だった。

そしてこの乗り替わりから引退まで、横山典弘騎手が騎乗した1戦を除いて全て上村騎手が手綱を取ったわ。

 

上村騎手は、1992年に騎手デビュー。

競馬学校の同期だった後藤浩輝騎手をして「学校生の時から、群を抜いて馬乗りがうまかった」と評したほどの騎乗センスの塊だったらしいわ。

デビュー年に重賞1勝を含む40勝で最多勝利新人騎手賞を獲得し、3年目には日本ダービーに2番人気・ナムラコクオーで騎乗を果たしたり、将来を嘱望される若手騎手の一人だった。あのサイレンススズカに騎乗することもあったわ。

ところが順風満帆かに見えた彼の騎手人生だったけれど、その後勝ち鞍を急激に落としていったわ。

原因不明の病が、彼の目を蝕んでいたの。

裸眼で0.8以上の視力を要求される騎手にとって、目の病というのは深刻な問題。

都合3度の手術でも視力が回復しない状況の中、愛する家族と不安と怖れと絶望感に眠れない夜を幾晩過ごしたか、周囲の私たちには想像もつかない。

それでも、もう一度騎手としてカムバックしたいという強い意志とパートナーのサポートによって、4度目の手術に踏み切った上村騎手は視力を取り戻した。

視力は回復しても、闘病生活明け、そしてフリーの立場という再出発はとても苦しいものであったのと思うわ。

 

けれどそんな苦しいときにこそ、微笑み、手を差し伸べてくれる福の神も必ず現れるの。

上村騎手にとっては、橋口弘次郎調教師がそうだった。

手術明けの2005年に年間42勝をマーク。

前年の6勝から見事にカムバックを果たしたの。

そして、その福の神との出会いの先にスリープレスナイトが待っているのだから、人生分からないものね。

さて、ダートに転向した彼女と上村騎手は、その後2連勝で一気にオープンクラスまで上り詰めたの。

けれど、そこから明け4歳1月のオープン特別までを4戦して5着・5着・2着・2着ともどかしいレースが続いたわ。

 

……そうね、オープンクラスの壁に当たったのか、と思うわよね。

ところが、そうじゃなかったの。

その前に、次はどうするの?まだチェイサーでいい?

……はーい、ドライマティーニね。少々お待ちを。

 

それで、どこまで話したっけ、あ、そうそう、オープンクラスでの蹉跌の話ね。

それまでの彼女の戦績の中の勝利は、全て1,200m。

そして、オープンクラスでの4戦は、全て1,400m。

……そう、彼女は生粋のスプリンターだったの。

 

たった200mの違いでも、ある種のサラブレッドにとっては成績を大きく左右する距離の違いなのよね。

有名どころでは、史上最強のスプリンターとの呼び声も高いサクラバクシンオー。

1,400m以下のレースでは12戦11勝2着の準パーフェクトな戦績。

けれどこれが1,600mのマイル戦では、生涯勝つことができなかったわ。

たかが200m、されど200m。

 

3ヶ月の休養をはさんで4月にダート1,200mの中山・京葉ステークス、同じく5月にダート1,200mの京都・栗東ステークスを連勝。

それまでの悶えが嘘のように、ベストのスプリント条件に戻った彼女は一段と強い輝きを放つようになっていたわ。

そして次走、ついに彼女と上村騎手は重賞に挑戦するのですが、なんとそのレースは芝」・1,200mの中京・CBC賞。

いくら得意の1,200mとはいえ、彼女が芝を走ったのはデビューして2戦のみで未勝利だったのよね。

オープン特別を2連勝中とはいえ1年半ぶりの芝のレースとあって、ファンも半信半疑の4番人気という微妙な評価だったわ。

 

けれど、そのCBC賞を圧勝。

上村騎手にとっては、1998年のスワンステークス以来の10年ぶりの重賞勝利だったの。

白眉は次走の北九州記念。

トップハンデと1番人気を背負いながら、好位から直線抜け出す力強い末脚、誰もが目を奪われた。

 

……ええ、そうね。この北九州記念の勝ちは本当に強かった。

 

期待が、確信に変わったゴール前だったわ。


そして運命の2008年10月5日。

名だたる短距離走者たちの競演、G1・第42回スプリンターズステークスを迎えるの。

上村騎手は生涯で初めてG1レースを1番人気で迎えることになった……。

そのプレッシャーをものともせず、細心の注意を払って唯一ともいえる懸念材料だったスタートを絶好の出足で決めた彼女は、いつも通り道中は好位をキープ。

前半3ハロン33.6秒という緩い流れの中、しっかりと折り合って4コーナーを迎えたわ。

残り400m、外から岩田騎手の2番人気・キンシャサノキセキが馬体を併せにかかったけれど、上村騎手は憎いくらい冷静だった。

中山の短い直線にも焦ることなく、直線を向いてひと呼吸置いてから追い出しにかかったの。

抜群の反応で弾けたスリープレスナイトは、瞬く間に後続を引き離して残り100mほどで先頭に立ったわ。

 

もう他馬とはまるで脚色が違って、後続馬は影も踏めない。

ゴールするまでの数秒間、勝利を確信した上村騎手は何を想ったのかな。

苦しかったときの、眠れない夜だったのかな……。

 

歓喜の雄叫びとともに、鞭を持った左手を挙げて勝鬨を挙げる上村騎手。

同期の後藤浩輝騎手をして「同期で真っ先にG1を取るのは、間違いなく上村だと思っていた」とまで言わしめた男が勝ち取った、デビュー17年目にして初めてのG1戴冠だったわ。

折しもこの日は橋口調教師の63歳の誕生日。

苦しいときに手を差し伸べた福の神にとっては、最高のバースデープレゼントになったはずよね。

「今日は橋口先生の誕生日なので、恩返しができました。何とか自分の手で、勝利を渡したかったので、それができて本当に幸せです」と勝利インタビューで語る上村騎手の目には、ずっと彼が見続けてきた光のように輝く涙があふれていたのよね。

 

「眠れぬ夜」を名に抱く生粋のスプリンターの名牝と、「眠れぬ夜」を幾晩も過ごしたであろう騎手の物語。

 

何度観ても、クラシックなカクテルのように深く上質な味わいのようね。

 

 

 

その後、スリープレスナイトは怪我や病気などで順調にレースを使うことができず、5歳に2戦して2着2回。

連覇を目指したスプリンターズステークスを前にして、屈腱炎で引退したわ。

母として2頭の仔を産んだ後、怪我から突然に鬼籍に入った。

 

8歳という若すぎる生涯だったわ。

その名前と違って、今ごろあっちでゆっくりと眠っているのかしら。

上村騎手は、その後2014年を以て騎手を引退。

2017年12月にJRAの調教師試験に合格して、調教師としての道を歩いているわ。

そして、2019年3月から、上村調教師は厩舎を開業して、現在も活躍中よ。

 

眠れない夜は、きっと誰にでも訪れるわ。

不安や怖れ、絶望感、焦り……そんな夜を過ごすことも、人生の中にはあるでしょう。

 

そうした感情は、消そうとすると増幅することが多いもの。

眠れないのなら、なぜ不安だったり、怖れたり、絶望したり、焦ったりするのか、掘り下げてみてもいいかもしれないわね。

 

もしかしたら、あの2008年スプリンターズステークスのような光の物語を、自分の中に見ることの方が意外と怖いのかもしれないわね……。

 

……ええ、ありがと、また来てちょうだい。

 

そういえば、今年ももうすぐスプリンターズステークス。

瞬きさえ許さぬ電撃の6ハロンに、何を見ようかしらね。

 

それじゃ、気を付けてね。おやすみなさい。

 

文・大嵜直人

写真・tosh

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