2018年3月4日、長きに渡ってダート競馬の世界を支えて来た1頭の馬がこの世を去りました。

その馬の名前はサウスヴィグラス。

決して順風満帆とは行かず苦しい時期が長かった現役時代から、ダート種牡馬の重鎮として君臨した晩年まで、彼の一生をここで紹介させて頂きたいと思います。

若き日の苦悩(デビュー前から4歳春まで)

1996年4月19日にアメリカで生を受けた彼は、南波壽オーナーの所有馬となってサウスヴィグラスと名付けられます。

サウスはオーナーの冠名、ヴィグラス(Vigorous)と言う英単語はあまり馴染みがないかもしれませんが、「壮健な、活発な」と言う意味の形容詞です。

彼の父であるEnd Sweepは、父にアメリカ屈指の名馬フォーティーナイナー、母にGI馬を持つ良血馬です。自身は、アメリカではGIII勝ちが最高でしたが、カナダでGIを勝っており、血統と実績の両面を持ち合わせた種牡馬でした。

日本で競走馬としての生活を送ることとなった彼は、2歳(当時の表記では3歳)の11月に東京ダート1400メートルの新馬戦で、横山典弘騎手を背にデビューすることになりました。しかし、ここでは7番人気で2着と勝てず、次走の未勝利戦(中山ダート1200m)で勝ち上がって2歳シーズンを終えます。

年が明けて1999年。3歳となった彼は1月9日に行われた500万特別の朱竹賞(中山ダート1200m)で勝利します。

2勝してオープン馬となった彼は、JRAにおける最初のダートの登竜門──ヒヤシンスS(東京ダート1600メートル)に挑むことになりました。しかし、2勝馬ながら1200mでの勝鞍しかないことから5番人気に甘んじます。そしてレースでは、先行して粘り込みを図るも、1番人気のタイキヘラクレスにかわされて2着に終わってしまいました。

次走で彼は芝の短距離戦に矛先を変えて、中山芝1200mで行われる重賞のクリスタルカップに挑戦しました。しかし、ここではデビュー以来初めて連対を外す11着と大敗。同時期にはタイキヘラクレスも弥生賞、皐月賞に出走して惨敗しています。今もなお残る課題ですが、当時もこの時期の3歳ダート路線が未整備だったため、2頭とも苦肉の策として出走せざるを得なかったのかもしれません。こうしてサウスヴィグラスは3歳の世代限定戦を終えて、休養に入ることになりました。

その一方で、彼が休養していた間にも他の3歳ダート馬たちの戦いは続きます。

6月にヒヤシンスSと同じ条件で行われたユニコーンSでは、後に南部杯を制するゴールドティアラが勝利し、新設されたジャパンダートダービーでは南関の快速馬オリオンザサンクスが中央勢を破って勝利を収めました。

その他にも北関東競馬からユニコーンSに挑戦してきた栃木の女傑・ベラミロード、ダートに戻って名古屋優駿(名古屋競馬場のダート1900mで実施されていた交流GIII、現在は廃止)で重賞初勝利を収めたタイキヘラクレス、南関でオリオンザサンクスと鎬を削ったオペラハットなど……ダート界でも若き新興勢力たちが、秋になったら古馬に挑むべく、名乗りを上げ始めていました。しかし、サウスヴィグラスは彼らの居る戦場には向かうことはありませんでした。

その理由としては、彼の血統的な部分やこれまでのレースっぷりからダート短距離の方が向いている、ということが考えられたからでしょう。実際に、父のEnd Sweepと母父のStar de Naskraの重賞勝利はほとんどがダート7ハロン(1400m)まででした。また、ダートの短距離でハナを切って軽快に逃げたり先行して粘り込んだりと言ったレーススタイルを見ると、長距離でスタミナを考えながらレースをする姿があまりイメージできなかったのかもしれません。そのためサウスヴィグラスは、1600m以上のレースが中心の3歳ダート路線を一旦離れることになりました。

そして半年以上に渡る休養期間を経て、彼は競馬場に戻ってくることになります。

東京ダート1200m(現在は同条件での開催無し)のコースで行われる900万条件を、柴田善臣騎手とのコンビで快勝。そして、京都への初遠征となる翌年1月の準オープン戦も、武豊騎手とのコンビで快勝し、いよいよダート短距離界を席巻する準備は整ったかに見えました。

しかし、ここからが、そう簡単にはいきませんでした。

オープン戦では3戦連続で単勝1倍台の1番人気に押されましたが、いずれも2着、2着、3着と勝利することができません。そして彼は3着に敗れた5月14日の栗東ステークス(京都ダート1200m)を最後に、再び休養に入る──すなわち、翌月に行われる降級によって準オープンから仕切り直すと言う選択をすることになりました。

このように、若き日の彼は順調に出世街道を歩むということはなく、何度も壁にぶち当たる道を歩む事になりました。

しかしその壁は、まだ彼の行く手を阻む困難の『序章』でしかなかったのです。

雌伏の時(4歳秋から5歳の12月まで)

半年ほどの休養を経て、サウスヴィグラスは2000年11月に復帰します。復帰初戦は東京芝1400mの奥多摩S。なぜか芝で復帰した彼は1着から2.9秒離される大敗を喫しました。

ダートに戻った次走の貴船S(京都ダート1200m)は人気に応えて快勝します。しかし残念なことに、当時の競走体系では準オープンでもう1勝しないとオープンクラスへの復帰ができませんでした。すぐさまオープンへと復帰すべく、翌月の武田尾S(阪神ダート1400m)に出走しましたが、ハタノアドニスに敗れて4歳シーズンを終えます。この時サウスヴィグラスを破ったハタノアドニスは、しばらくして再度戦う事になるのですが……それはまだ先のことになります。

年が明けて2001年。5歳となった彼は、準オープンを勝ちあがる前に、ガーネットS(東京1200mで行われたGIII、現在は廃止)へと、以前コンビを組んだ柴田善臣騎手とともに参戦することになりました。

遅すぎる初の大舞台に、格上挑戦と言う形で参戦したものの、3番人気で3着と好走して気を吐きました。そして、翌月に行われた準オープンの橿原S(京都ダート1200m)で勝利し、再びオープン馬へと返り咲くことになります。

……しかし、再昇格後も険しい道のりは続きます。昇級初戦の京葉S(中山ダート1200m)をトップハンデで勝利したものの、次走の欅ステークス(東京1400m)は8着と惨敗。

地方競馬初参戦となった6月の北海道スプリントカップ(札幌ダート1000mの交流GIII、当時はホッカイドウ競馬開催時の札幌競馬場で施行)では、一歳年下で勢いに乗っていたノボジャックの2着と敗れてしまいました。

2001年はダート競馬の世界で大きな変革のあった年でした。この年から地方競馬でJBCクラシック、JBCスプリントの2つの交流GI(以下2つを総称して、JBC競走) が開催されることになったのです。

2000m前後の距離で行われるGIは複数ありましたが、ダート短距離のGIはこれが初めて。このタイトルを目指して、ノボジャックや他のダート短距離馬たちと鎬を削ることとなります。

秋の初戦、この年からJBCの前哨戦と言う位置づけになった東京盃で、もう一度サウスヴィグラスとノボジャックが、激突します。このレースを勝たなければ賞金的にJBCスプリント出走の目はなさそう……と、柴田善臣騎手とともに背水の陣で臨んだ彼でしたが、スタートで後手を踏み6番手ぐらいからのレースとなってしまいます。巻き返しに掛けた直線でも、先行してそこからぐいぐいと伸びる1番人気のノボジャックを交わせずに馬群に沈み、2番人気の支持を裏切る6着と大敗してしまいました。

そしてJBCスプリント出走を断念した彼が次に出走したのは、久々のマイル戦となる武蔵野Sでした。ここでは軽快に逃げるも、4角手前で抜群の手ごたえのクロフネにかわされるとそのまま失速、14着と惨敗することになってしまいます。

その後はOP戦を2走して1着、4着とピリッとしないまま5歳シーズンを終えます。

ここまで22戦して8勝、2着6回、3着2回と安定した成績を残しながら、重賞未勝利でGI出走も無しと、なんとも惜しい感じの競走生活になってしまいました。

一方で、同期で4歳まで条件戦しか走ることのなかったノボトゥルーが、この年の初めに根岸S、フェブラリーSと連勝して一気にGI馬に上り詰めました。次々と栄冠をつかんでいく動機や後輩たちを見て彼はどう感じたのか……もしかすると、彼の心の中は焦燥感で一杯だった、かもしれません。

勇躍の時と、続く挫折(6歳シーズン)

年が明けて1月6日。彼は昨年同様、ガーネットSに柴田善臣騎手と挑戦します。2番人気に推されたなか、直線粘り込みを図ろうと必死に逃げます。しかし後方から上がり3ハロン34.6の物凄い足で突っ込んできたブロードアピールに、最後は差されて2着。またしても重賞初勝利とはなりませんでした。

しかし、彼らは諦めません。そのまま1月末の根岸Sに向かい、強敵相手に立ち向かいます。

ただし、今度は6番人気。

今まで1200mのレースでしか勝ったことのない不安や、重賞でのあと一歩届かないレースのせいか、あまり支持されませんでした。1番人気にサンデーサイレンス産駒の有力ダート馬アッミラーレ、その下に同期のGI馬ゴールドティアラ、JBCスプリント覇者のノボジャック、さらには昨年の覇者で同期のノボトゥルーらが続きます。

ゲートが開くと、出遅れたアッミラーレと対照的に好スタートを切り、グラスエイコウオーを先に行かせて内から2番手で追走します、そして直線、400m標識のあたりでグラスエイコウオーに並び、ほどなくして競り落として先頭に立ちます。残り200mの時点で独走となりましたが、後ろからノボトゥルーがGI馬の意地を見せるべくじわじわと追い込んできます。

しかし、鞍上の鞭に応えて必死に逃げ込み、なんとか1着でゴール板を駆け抜けます。

初出走から3年と2か月、計24戦。

苦汁を舐め、同期たちの活躍を横目に辛い日々を送り続けて来た彼の元に、初の重賞タイトルが舞い込んできた瞬間でした。

その後、彼は根岸Sで獲た優先出走権で初めてのGI──フェブラリーSに出走します。

前走と同様に距離不安から8番人気と低評価でしたが、GI馬9頭を含む豪華メンバーを相手に6着と善戦しました。

この後は鞍上を柴田善臣騎手に固定し、照準をダート短距離戦に絞って日本各地の交流重賞を転戦します。

高知の黒船賞で交流重賞初勝利を飾ると、名古屋のかきつばた記念、北海道スプリントカップ、盛岡のクラスターカップと破竹の勢いで連勝。そのうちかきつばた記念とクラスターカップはコースレコード、北海道スプリントカップはコースレコードにしてダート1000mの日本レコードですから、彼のポテンシャルの高さがいよいよ発揮された時期でした。

この年のJBCスプリントは盛岡競馬場で行われることから、彼のGI初勝利はほぼ確実……そう思われていましたが、彼に悲劇が襲い掛かります。

──骨折でJBCスプリント回避。

その時、すでに6歳。

現役競走馬として残された時間の短い彼にとって、この事実は受け入れがたいものでした。結局彼のいないまま行われたJBCスプリントでは、スターリングローズが南部杯惨敗の雪辱を晴らす勝利を収め、ノボトゥルーとノボジャックがそれに続きました。3頭とも4連勝の中で対戦して先着していることから「競馬にIFは禁物」とはいえ、無事であればサウスヴィグラスが勝っていたかもしれないと言いたくなってしまいますね。

また、この年の7月には2000年から日本で供用され始めていた父、「エンドスウィープ」が11歳の若さ(人間で言えば40歳を少し過ぎたぐらい)で急逝しています。

残された産駒はわずか3世代ですが、後に桜花賞馬ラインクラフトやドバイデューティーフリーを勝つアドマイヤムーンを輩出することになります。

父を失い、怪我でチャンスを棒に振り、一瞬で哀しみの渦に突き落とされたサウスヴィグラス。

果たして彼は、栄光をつかみ取り、後に続く弟や妹たちに、兄としての威厳を見せることができるのか──そんな不安が、ふつふつと湧いてくる頃でした。

再始動の時(7歳シーズン)

年が明けて2003年2月1日。

怪我が癒えた彼は連覇を目指して根岸Sに参戦します。

しかしここでは怪我明けということが嫌われたのか、単勝2番人気(5.6倍)と、実績の割には軽視された印象のオッズでした。

圧倒的1番人気にはニホンピロサート(1.5倍)が推され、サウスヴィグラスの後ろにはノボトゥルーなどが続きます。

ゲートが開くと、いつも通りの好スタートからタガノチャーリーズを先に行かせて2番手を確保、そして直線で彼女をかわして先頭に躍り出ます。最後は二ホンピロにクビ差まで詰め寄られたものの、重賞5勝馬の意地を見せつける貫禄の勝利を収めました。

その後彼は、フェブラリーSを回避して再度休養。6月の北海道スプリントカップで復帰します。ここでも2着のエイシンラグランジに4馬身差をつける圧勝で「ダート短距離界にサウスヴィグラス在り」と見せつけます。

しかし、またしても彼を悲劇が襲います。

昨年の故障を再発させてしまい、彼は、おそらく使いたかったであろう真夏の時期を、休養にあてることになってしまいました。

幸いにも軽症だったことで、10月9日に行われるJBCスプリント最大の前哨戦──東京盃(大井ダート1190m)に参戦します。

他にも交流重賞の重鎮とも言えるノボジャックやノボトゥルー、三歳牝馬のソルティビットなど多くの役者が集い、前哨戦としては不足ない良いメンバーが揃いました。

そして、かつてサウスヴィグラスを条件戦で下したあの馬、ハタノアドニスも地方競馬代表として参戦します。

彼は中央ではあの後OPクラスで通用せずに南関に移籍しますが、そこの水が合ったのか一気に立て直し、この年は地方馬限定とはいえ重賞4勝を上げる大活躍をしていました。レース前の前評判はサウスヴィグラスが1番人気、ハタノアドニスが2番人気となり、その下にサウスヴィグラスと決着がついたと思われていた「ノボノボコンビ」が続きました。

ゲートが開くとソルティビットとともに好スタートを決めて、先頭に立ちます。怪我明けとは思えない軽快なスピードで直線に入り、この時は誰もが勝ったと思ったでしょう。

しかし残り190m標識の辺りで休養明けが響いたか、若干スピードが落ちます。

その隙を突いて、彼を虎視眈々と後ろからマークしつつも4角で外に出したハタノアドニスが、内田博幸騎手の渾身の鞭に応えて彼に並びかけます。

そして、並びかけると同時に一気に伸びて、彼を競り落としてしまったのでした。

実況の及川サトル氏もこれにはびっくりで「この強さはホンモノだぁ!」と思わず叫ぶ、力強い走りっぷりでした。

結局、ハタノアドニスに4馬身の差をつけられるという負け方をしてしまったサウスヴィグラス。この時競馬ファンの中には、「もしかしたら2度の骨折で彼の能力がかなり落ちてしまったのでは?」と考える人もいたようです。

……もしこのまま今年のJBCスプリントを落としてしまったら……来年は、もう8歳。若い世代も台頭してるし本当にGI馬になれるのかわからない……

次を勝たなきゃ、後はない。

サウスヴィグラスの心はプレッシャーで、今にも押し潰されそうだったに違いありません。

しかし、競走馬がそれに打ち勝つためにはレースで勝利するしかない。

彼は「必勝」の二文字を心に刻み付けてJBCスプリントに臨みました。

運命の10m

この年のJBCスプリントは東京盃と同様に、大井ダート1190mで行われました。

1番人気には前哨戦を勝利したハタノアドニスが推され、2番人気は中央のシリウスS(当時は阪神ダート1200m)を勝ったマイネルセレクトとなりました。

サウスヴィグラスは前走の敗北で故障を引き摺っていると思われたのか3番人気で、その後に昨年の覇者スターリングローズやこの年の南関東二冠馬のナイキアディライト、そして「ノボノボコンビ」が続きました。

この施行距離について「1190mってなんだよ」と思う方も多いかもしれません。

実は2002年から大井競馬場がスタンドの改修工事のため、コースの一部が使えずにゴール板が若干手前に移動したためです。

しかし、この10mがレースの大きなカギを握ることになることは、レース前は誰も知りませんでした。

ゲートが開くといつも通り好スタートを見せ、同じようにスタートの良かった内のナイキアディライトを先に行かせて2番手に取り付きます。若干外目の3番手にハタノアドニスが、以降マイネルセレクト、スターリングローズらが好位に付けて、ノボノボコンビは後方からレースを進めます。

4コーナーを回ったところでサウスヴィグラスはナイキアディライトをかわして先頭に立ち、そのまま差を広げようと必死に走ります。後ろから来たハタノアドニスは猛追しようとしますが、なかなか差が縮まりません。

残り190m地点で、サウスヴィグラスは1馬身半ほどのリード。このまま流れ込める……そう思った直後、外目から2頭の馬が彼を猛追します。

大西直宏ジョッキーの駆る、マイネルセレクト。前の競り合いを見つつマイペースで運んだ彼は、乾坤一擲の追い込みでサウスヴィグラスに並びかけます。

残り50、40、30……。

一完歩ごとに差は縮まり、ゴールまで残り10mぐらいの地点では完全にサウスヴィグラスを呑み込まんと馬体を並べました。

そして最後の一完歩、このままでは負けられないという執念で必死に体を伸ばしたサウスヴィグラスが、かすかな差でゴールへと先に飛び込みました。

苦節5年、通算33戦、舐め続けた辛酸を勝利の美酒の味で上書きした瞬間でした。

この時ゴールまであと10mがあったら、まず交わされていたに違いありません。

この10mの差が、競走馬人生を左右する大きな差となったのです。

こうして彼はこのレースを最後に引退し、種牡馬となりました。若くして没した父の血を広めるべく、初年度から多くの牝馬を集めて人気種牡馬となった彼の栄光は、次章で書きたいと思います。

父の後継者から偉大なダート種牡馬へ

JBCスプリントを最後に種牡馬入りした彼は、初年度からいきなり150頭近い牝馬を集めます。その背景には、早世した父の分の期待ということに加え、50万円の安い種付け料が生産者たちにとってかなり魅力的だったということがあるでしょう。

初年度、2年目の産駒たちの勝ち馬率が約4割と、なかなか好調の滑り出しを切り、堅調な成績を残しつつあったサウスヴィグラス。

そして2007年に生まれた一頭の牝馬によって、彼のダート種牡馬としての名声はさらに高まります。

彼女はコパノハニーと名付けられて、2009年に栗東の須貝尚介厩舎に入厩。

しかし、腰が甘いことから厳しい調教ができないという判断で、地方競馬への転籍を周囲は決断しました。そしてコパノハニーはオーナーの意向で笠松競馬場の柳江仁厩舎に移籍することになります。

笠松に移った彼女はラブミーチャンと名を改めて、10月の認定新馬戦で濱口楠彦騎手を背にデビュー。

地元笠松で逃げて連勝した後、2歳500万条件(京都ダート1200m)でデビューのかなわなかったJRAのレースに参戦し、2歳レコードで快勝します。この時、笠松時代のことを知らなかった人たちは、「あの馬にいったい何があったんだ!?」と思ったに違いありません。

ちなみに彼女の移籍時にはこんなエピソードがあります。

彼女のオーナーはDr.コパこと小林祥晃氏で、冠名と母親のダッシングハニーの一部から取ったコパノハニーと言う名を付けました。しかし、中央から笠松に移籍する際に、「中央競馬時代の苦い経験を乗り越え、自分のことを好きになれるように」と、彼女を改名し、風水上この場所が良さそうと言う理由で笠松競馬場を選んだとか。

中央競馬での勝利を飾った後、彼女は交流重賞の兵庫ジュニアグランプリを勝ち、2歳ダートの頂上決戦となるGI競走、全日本二歳優駿に挑戦します。ここでも持ち味の鋭いスピードを武器に軽快に逃げ、強敵の揃う中央勢、ホッカイドウ勢、南関東勢を破って勝利を収め、父サウスヴィグラスに初めてのGIタイトルをもたらしました。また、笠松競馬所属の馬としても、交流元年以来多くの馬が成し遂げることのできなかったGI勝利第一号となりました。

彼女は最終的に6歳まで走り抜き、交流重賞5勝を挙げて引退。彼女の現役時代と笠松競馬の売り上げ的な低迷期がちょうど重なっていたことを考えると、彼女の活躍無くして、笠松競馬の存続は無かったのかもしれない……とも言えます。繁殖入りして、現在は母父サウスヴィグラスの血を広めるべく奮闘する彼女の姿を、陰ながら応援したいです。

……話は脱線しましたが、ラブミーチャンのGI勝利によってサウスヴィグラスも馬産地で人気を集め、翌2010年は212頭と大人気となりました。そしてそれ以降も産駒たちは活躍を続け、2015年にはコーリンベリーがJBCスプリントを勝つなど躍進を続けます。

しかし、彼の悩みは2つありました。

それは、父同様に活躍馬が短距離馬中心で1800m以上の上級条件で勝てる馬がなかなか出てこなかったこと、そして、活躍馬の大半が短距離馬で光景種牡馬がほとんどいなかったことでした。

ダート種牡馬の後継者不足と言うのは古くからよくある話でしたが、己のサイアーラインをつなぐためにはスパロービート(南関の短距離重賞勝ち)、ナムラタイタン(2011年武蔵野S勝ち)に続く活躍馬を出さなければなりませんでした。

2017年7月。

大井競馬場で行われたGI、ジャパンダートダービーで、待望の後継候補が見つかりました。東京ダービーを勝利した南関所属馬ヒガシウィルウィンが、中央勢7頭ら強敵を相手に勝利したのです。

ヒガシウィルウィン効果でさらに種付け数が増えると思われた2018年でしたが、体調不良で1度も種付けができず、サウスヴィグラス号は22年の生涯を終えました。

しかし、彼のダート界に残した数多くのタイトルと影響は決して消えることはありません。

2020年デビューの馬たちがラストクロップとなってしまいますが、今までデビューした馬、これからデビューする馬の中から、第二のサウスヴィグラスとなるべき馬が出てくることを期待したいです。

サウスヴィグラス自身も、決して順調に競走生活は送れませんでした。

もし未来のサウスヴィグラスとなるべき彼の子がつまずいた時は──父の栄光と苦悩を思い出して、自分を奮い立たせてほしいものです。

写真:かず

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