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タンタアレグリアとの約束

 

「あなたが最も忌み嫌う四字熟語は何ですか?」

 

答えは様々あるだろうが、私は、こう答える。

 

「予後不良」と。

 

回復が極めて困難で、殺処分の処置が適当であると診断された状態を「予後不良」と呼ぶ。転じて、競馬においては「予後不良」は「安楽死」を暗に意味する言葉となっている。

 

2019年7月3日。

九州地方で災害級の大雨が続く中、その知らせはSNSで拡散された。

 

タンタアレグリア、予後不良。

 

まさか、という思いだった。

競馬の神様はなんて無慈悲なのだろう、とも思った。

 

15戦3勝。

7歳の戦績とは思えないほど、大切に使われてきた馬だった。

──いや、思うように使うことが出来なかった、といった方が正しいのかもしれない。

 

タンタアレグリアはその体質の弱さから、休養を繰り返してきた。それを乗り越え、約1年10ヶ月ぶりとなる復帰戦に向けての調教を重ねていた矢先の出来事だった。

そこへ飛び込んできた突然の訃報に、私たちは為す術もなく、ただただ悲しみに暮れた。

 

 

 

タンタアレグリアは2012年3月29日、北海道白老町の社台コーポレーション白老ファームにて生まれた。

父ゼンノロブロイ、母タンタスエルテ、母の父Stuka。

父であるゼンノロブロイも白老ファームの生産ということもあり、牧場での期待も高かったという。

 

時が過ぎて、2014年7月。福島競馬場でのデビューを迎えるも、2着。次走の新潟でも2着と惜しい競馬を続け、11月の東京開催で迎えた3戦目でついに勝ち上がった。

その年から中山に移転し名称が変わり、G2に格上げされたホープフルステークスでは、出脚が鈍く7着に終わる。

 

続いてゆりかもめ賞2着、大寒桜賞1着といった好成績で迎えたのは、ダービートライアルの青葉賞。

レーヴミストラルの2着となり、日本ダービーへの優先出走権を得た。

青葉賞から後は主戦騎手を蛯名正義騎手に固定し、2015年クラシック戦線に挑戦。ドゥラメンテ、キタサンブラックらと激闘を繰り広げた。特に菊花賞を制したキタサンブラックは、その後も同世代の高き壁としてタンタアレグリアの前に立ち塞がる。

日本ダービーは7着、セントライト記念6着、菊花賞4着だったタンタアレグリア。勝利とまではいかずとも、掲示板前後に健闘するタンタアレグリアの走りは、大いに競馬ファンの心を掴んだ。

 

菊花賞後は、そのまま長距離戦で挑戦を続けることに。翌年の2016年、明け4歳になったタンタアレグリアは、ダイヤモンドステークスでは1番人気に推されたものの4着。阪神大賞典はシュヴァルグランの2着と健闘した。さらに、天皇賞・春では1着キタサンブラックに0.3秒差の4着。

勝てないまでも──重賞だけでなく、G1でも上位進出するようになった。確かな地力の向上が見られた。

しかしその後、約9ヶ月の放牧をすることとなる。

 

そして、2017年AJCCがやってきた。

当時最強世代の呼び声も高かった4歳世代のゼーヴィント、ミライヘノツバサが参戦し、それぞれ1番人気、3番人気と支持を受ける。

タンタアレグリアは休養明けということもあり、7番人気に落ち着いた。

 

レースが始まると、道中は先行集団の後方につけたタンタアレグリア。

最終コーナーを抜群の手応えで、内からするするとあがっていく。

最後の直線を向くと、前が開いた瞬間、蛯名騎手のゴーサインに弾けるように飛び出した。

しかし、その次の瞬間──後方でシングウィズジョイが大きく転倒し、落馬。

再び視線を先頭に移したときには、タンタアレグリアがインコースから力強く抜け出すところだった。

そのまま堂々とゴール板を駆け抜けたタンタアレグリア。見事1着となり、5歳での重賞初制覇となった。

 

しかし、転倒したシングウィズジョイは予後不良に。馬が無事に走り切り、現役時代を終えることの難しさを改めて感じさせるレースとなった。

 

 

 

 

その後は春の天皇賞を目標に、日経賞へ出走するプランが立てられた。

しかし、右前脚の深管骨瘤を発症。

天皇賞・春を見送るという判断がなされる。

全ては馬第一での判断ではあるだろう。

しかし、たらればを言ってみたくなるのも確かである。

その天皇賞・春では、同世代のキタサンブラックが連覇を達成した。

 

8ヶ月の休養を経てのオールカマーでは3着。

次走、ジャパンカップへ照準を合わせるも、体調が整わないため回避となった。

その後は、長期戦線離脱を余儀なくされた。

 

そして、2019年6月。

じっくりと立て直してきたタンタアレグリアが、1年7ヶ月ぶりに入厩。

同期のキタサンブラック・ドゥラメンテといった多くの馬は既に引退していた。

しかしタンタアレグリア陣営は、諦めていなかった。まだやれる。もう一度、タイトルを。

そうして復帰に向けて調整を重ねていた、その矢先に、悪夢は訪れる。

 

復帰戦となるはずだった8月3日の、札幌日経オープン……そのちょうど一ヶ月前の、7月3日。

 

タンタアレグリアは調教中に、左後肢の第3中足骨および第1趾骨の複雑骨折を発症。

「左第1趾関節開放性脱臼」と診断され、安楽死という診断が下された。

 

長い長いトンネルの終わりは、タンタアレグリアのその命の終わりと共にやってきたのだ。

 

 


 

長期休養中、一日もはやく、元気になって欲しいと願っていた。

そして、元気にターフを駆けるタンタアレグリアの姿をはやく見たかった。

それだけだったのに──。

 

望んでいた形ではなかったけれど、タンタアレグリアは、もう、痛みを感じることはない。

それだけは、唯一の救いのようにも感じられる。

 

競馬において、レースという舞台に立てること──それは、一見「普通」の光景に思えるかもしれない。

週末になれば200頭以上、多い週では500頭もの競走馬たちがレースに出走する。

だが、「普通」というのは決して「当たり前」ではない。

そのことをタンタアレグリアの死をもって、改めて強く実感している。

 

体質が弱くてレースに多く出れなかった。

それでも、懸命に、懸命に生きてきた。

そうしてついには命を落としてしまった、その1頭1頭すべてを覚えているのは難しいかもしれない。

けれども、私たちはそのうちの1頭であるタンタアレグリアの死から、何かを感じることは出来るはずだ。

 

たまたま同じこの時代に生まれたこと。

クラシックという大舞台に挑む姿を応援出来たこと。

AJCCでの重賞初制覇を喜べたこと。

長引く休養に不安を重ねていたこと。

「また会いたい」と祈っていたこと。

 

それらはきっとこれからも、私たちの心の中に刻まれ続けるだろう。

 

そして。

どんなにつらいことがあっても前を向いて、これからも競馬を愛していくこと。

 

 

私には、それこそがタンタアレグリアとの最期の約束のような気がしてならないのだ。

文・笠原小百合

写真・かぼす

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