競馬にはドラマがあります。

時に笑い、時に悔しがり、時に怒り……

そして、時に涙する。

そんな風に感情が動かされるのも、真剣勝負だからこそ。

今回のテーマトークは「私が競馬で泣いた時〜悲しみの涙編〜」として、4つのエピソードをご紹介していきます。


ドバイの地に散った名牝を想って。

とある昔──1993年1月5日の正月競馬。
私は中山競馬場にいた。

到着時にパドックを周回している馬達は、その日デビュー戦を迎える馬達だった。

電光掲示板で、人気の馬を見る。
そこに並んでいた、とある1頭の馬名。
その馬が私の人生を変えることになるとは、その時は思ってもいなかった。

彼女の名は『ホクトベガ』。
彼女はその日、加藤和宏(元騎手)とのコンビでデビューし、勝利した。

──何か、気になる。この馬を、追いかけてみるか。
単純な閃きだった。

ホクトベガはデビューから3連勝で重賞フラワーCを勝利。
そしてクラシックでは桜花賞・オークスと入着する。その2レースを常に先頭で駆け抜けたのは『ベガ』だった。

そして(秋華賞創設は1996年のため)牝馬3冠歳クラシック最終戦、エリザベス女王杯。
その前日、私は夢を見た。
『ベガはベガでもホクトベガ!』とアナウンサーが叫ぶ夢だった。
私は起きて競馬新聞を見た。単勝はもちろんホクトベガ。馬連は1点買いだけに絞った。相手は前走、古馬相手に重賞2着に入った『ノースフライト』。
そして、ホクトベガが勝った。

ブラウン管テレビからは、夢と同じ声が聴こえた。

しかしその後、彼女は芝でなかなか勝てなかった。
久々に勝利した芝の札幌日経OPは、私の誕生日だった。
どんどん私は、ホクトベガと自分の、何か見えない縁を信じ始めていた。

だが、彼女はまたもや、なかなか勝てない時期に突入。
しばらく苦しい時期が続いた。

迎えた翌年の6月13日(私の誕生日の翌日)に、彼女は不良馬場の川崎競馬場のエンプレス杯で20馬身差で勝利した。

女神が彼女に、翼を与えた瞬間だった。
その後、彼女は全国の地方競馬へ遠征。
私は彼女のスケジュールに合わせて仕事を休み、一緒に夢を追いかけた。

そして迎えた国内最終戦の川崎記念。
彼女はパドックで私の前を通る度、必ず顔を私に向けてくれたように感じた。

いつもと変わらぬ歩行。
楽しそうに歩くパドック。
横山典弘騎手が乗っても、変わらぬ雰囲気。

またもや、圧勝だった。
そして彼女はドバイに向かった。
レース翌日の朝、私はいつものようにTVをつけ、NHKのニュースを見ようとした。
ブラウン管に電気が付いた瞬間、ホクトベガがドバイで亡くなった事を知った。

激しく泣いた。
一日中泣いた。
信じられない結末。
終わりは、想像出来ない形で訪れた。

それから10年後、私はホクトベガの故郷にいた。
10年ぶりの再会を果たした。彼女は血統は残せなかったけれど、多くの競馬ファンに伝説を残した。

もし万が一、いつしかファンの記憶からホクトベガが消えることがあったとしても、日本競馬の歴史にとって重要な分岐点として足跡を残した。
砂漠の砂を掴むと、サラサラと手のひらからこぼれて風と共に消える儚さに、ホクトベガの最期を重ねてしまう。

文:クレイ

ガラスの脚を持つ名馬が天にのぼった日。

私が競馬で泣いた時、それはアグネスタキオンの訃報を聞いたときです。

彼をはじめて見たのは新馬戦の時。

テレビでレースを見て、その強さに「この馬は三冠馬になる」と直感し、一目ぼれしたのを覚えています。

その後、今となってはその豪華なメンバー構成から「伝説の一戦」とされるラジオたんぱ杯3歳S、極悪馬場をものともしなかった弥生賞、着差以上に余裕を感じさせた皐月賞と連勝。

当然ながら周囲は三冠への期待を高めていたのですが、無念の屈腱炎での離脱──そして、引退。

その時はもちろん落ち込みましたが、「その分種牡馬として長く活躍してくれる」と、生まれてくる子供たちに夢を託しました。

数年後、その期待通りにダイワスカーレット・ディープスカイ・キャプテントゥーレと、数々のG1ホースを輩出。

「これからも夢を見ることが出来る!」と思っていた矢先、11歳という若さでの急死……。

「どうして、競走馬としても種牡馬としても、道半ばで夢を閉ざされてしまうのか」と落胆し、神様を恨み、競馬をやめることも考えました。

それでもやめられなかったのは、アグネスタキオンの子や孫が頑張っているのを応援せずにはいられなかったからだと思います。競馬には、サイレンススズカやライスシャワーのように「血を繋ぐことさえ叶わなかった馬」がたくさん存在します。

彼らの分もアグネスタキオンの血を受け継ぐ馬たちには頑張ってほしいですし、その頑張りをいつまでも応援したいと思います。

文:館山速人

憧れていた騎手の、訃報が届いたとき。

私が最も競馬で泣いた時といえば、後藤浩輝騎手が亡くなった時のことを思い出します。

訃報が飛び込んで来た時は「ウソだ」「ありえない」という事しか考えられず、ただ呆然としていました。

私にとって後藤騎手といえば、ショウワモダンで2010年の安田記念を勝って豪快なガッツポーズをしていたのが印象に残っている騎手でした。その時まだ幼かった私は「なんてカッコいいんだろう!」という憧れを持ちました。

しかし、2012年のNHKマイルカップで騎乗していたシゲルスダチが不利を受け転倒。後藤騎手は馬場に叩きつけられて頸椎を骨折する重傷で、ここから苦難の日々が始まりました。

4ヶ月後、ようやく復帰するやいなや同日の馬場入場の際に落馬し、またもや頸椎を骨折。

翌年の10月に復帰するものの、2014年4月にレース中に不利を受けて落馬……。

11月に復帰し復帰後初勝利した際には、ファン達から大きな声援を受け、メガホン片手に後藤節で応えました。

その様子を見て、私は涙が止まりませんでした。

しかし翌年の2015年、彼は自ら命を絶ちました。

苦しかったのだろう……

疲れたのだろう……

私はそう思いました。

神様は彼にどれほどの試練を与えるのだろうか?

もしかしたら苦難を乗り越えた先に何かがあったのかもしれません。でもその先は、もう見ることはできません。

今でも、もう取り返しのつかないその「もしかしたら」をひたすら考えることがあります。

そして今もまた、競馬を応援しています。騎手や競走馬が、命をかけて競馬場を走り抜ける、その瞬間を。

あの日流した涙が、いつか歓喜の涙に変わることを信じて。

文:かんちゃん

中学生、文化祭が終わって聞かされた訃報。

その日、中学生だった私は文化祭が終わり、全力で自転車を漕いでいた。

打ち上げ──しかも初恋の人の誕生会も兼ねていた──にも行かず、すぐに帰路についた。

1998年11月1日16時。

家までおよそ4km。

自転車で、すぐの距離だ。

家に着くと、父の顔は曇っていた。

「ビデオ、見ないほうがいいぞ」

だから言ったじゃないか。

穴党の父じゃ、このレースはあたらないって。

サイレンススズカの単勝だけ買っておけばいいんだよ。

考えてみろよ。

金鯱賞の勝ち方を。

1:57,8で走れる馬が、世の中どこにいるんだよ。

考えてみろよ。

毎日王冠を。

斤量59Kg背負って、朝日杯を圧勝したグラスワンダーと、NHKマイルカップを圧勝したエルコンドルパサーに完勝だぞ。

今年の天皇賞は、サイレンススズカが何馬身差で、どれくらいのレコードタイムで勝つかを見るレースなんだよ。

そうだろ?

笑いながら講釈を垂れる私に、父は何も言ってこなかった。

何かがおかしい。

初めて、その事に気付いた。

ビデオの頭出しの高速巻き戻しが終わり、今度はレースまで手で早送りをする。

……嫌な予感がする。

まさか、負けたのか。

あのサイレンススズカが?

そんな訳がない。

サイレンススズカだぞ。

どうやって負けるんだよ?

府中のG1のファンファーレが鳴る。

今後生きていく中で一生忘れることのないフレーズ。

「沈黙の日曜日」

父の馬券は、あたっていた。

しかし笑顔もなく、いつものように見せびらかしもしない。

あの日だけの出来事だった。

人生には「もし」がいくつもある。

もし、神戸新聞杯で差されていなければ……。

もし、香港国際カップで武豊騎手と出会わなければ……。

もし、天皇賞を走らなければ……。

あの日頬を流れた涙を、今でも忘れない。

もし生きていたら、平成6年5月1日産まれの君は、どんな顔で令和を迎えたんだろう。

文:高橋 楓


馬が生き物である以上、どれほど技術が発達しても、別れの瞬間はあります。

レース中の事故、引退後の事故や急病……さらには、デビュー前に悲劇に見舞われることも少なくありません。

だからこそ、今この瞬間に元気な馬を、そして騎手を、しっかりと応援したい──改めて考えさせられる、3頭の名馬たちと1名の騎手に関する涙のエピソードでした。

次回は打って変わって「私が競馬で泣いた時〜喜びの涙編〜」をお伝えしていきたいと思います。

どうぞお楽しみに!

編集:緒方きしん
写真:かず、笠原小百合

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