時は平成9年(西暦1997年)のことである。

三冠馬ナリタブライアンや女傑ヒシアマゾンといった『スターホース』が競馬場を去り、中央競馬界に“スーパーサイアー”サンデーサイレンスの時代が到来していた頃。

牡馬クラシック戦線ではブライアンズタイム産駒が猛威を振るい、春には“元祖・砂の女王”ホクトベガが異国ドバイのナド・アルシバ競馬場で、夏には“スーパーカー”マルゼンスキーが門別のトヨサトスタリオンセンターでこの世を去った。

様々な意味で、この時期は過渡期であったと言えるだろう。

美浦の小西一男厩舎所属の4歳牡馬に、スピードワールドという、競馬ファンやマスコミ関係者に大変な期待を懸けられた馬がいた。

彼は前年の1996年2月に行われた米フロリダのカルダーセールにおいて、87万5000ドル(当時のレートで約9000万円)という最高額で取引された高馬であり、当時のトレンドであったウッドマンを父に持つ良血のマル外であった。スピードワールドはウッドマンの産駒にしては珍しく、母方由来の芦毛馬だったのだが、その毛並みの綺麗さたるや半端なものでは無かった。芦毛というと若駒の頃は黒っぽく、歳を重ねるに連れて白くなる馬が大多数──しかしこのスピードワールドときたら、3歳の頃からほぼ真っ白だったのだ。

綺麗なのは、白い毛並みだけでは無い。

カルダーセールを見にフロリダを訪れた「競馬の神様」大川慶次郎氏は、3歳時のスピードワールドを目にして思わず「いい馬だねえ!」と感嘆の声を漏らしたという。

「姿、形が飛び抜けていい。グッドルッキングホースとはまさに、この馬のようなことを言うんだね」※1

『神様』によってとびっきりの賛辞を送られたスピードワールドは、小西調教師による“良い意味での放任主義”で、才能を大きく伸ばしていく。

1996年10月のデビュー戦を4馬身ぶっちぎって初勝利。

続いて勇躍出走したG3・府中3歳S(現在の東スポ杯2歳S)は5着に終わったものの、12月の自己条件戦・ひいらぎ賞では前週のG1・朝日杯3歳Sをコンマ1秒上回る1分36秒2という好時計で勝ち切ってみせる。さらに驚くべきことに、スピードワールドはこれら3戦全てにおいて出遅れていた。

強烈な末脚、そして破天荒なレースぶり。

当の小西師は心配一つせず、同年新設の4歳限定G1・NHKマイルCへ向けて黙々と調整を続けていた事だろう。

圧巻は翌1997年1月7日のG3・京成杯(当時は中山芝1600m)。大外10番枠に入った的場均騎手が鞍上のスピードワールドは、例によってスタートで大きく立ち遅れてしまう。

だがしかし、この馬はやはり只者では無かった。3コーナーを前に先団に取り付くと、外目を回して内の先行馬たちを抑え込む。そして後はただ1頭グングン伸びるだけ。2着のスルーオグリーンに6馬身差をつけた圧勝劇。

単勝の配当は、わずか120円であった。

「スタートの遅れはいつものこと。全く心配しなかった」※2 とはレース後の的場騎手の弁。相棒への多大な信頼感がうかがえる一言である。

もう一つ、スピードワールドの生涯のハイライトと言えるレースがある。同年6月のG1・安田記念だ。大目標と定めていた5月のNHKマイルCを捻挫のため回避せざるを得なくなり、決して順調とは言えない臨戦過程を踏んで挑んだこの古馬G1。

そんな中、歴戦のタイキブリザードやジェニュインに次ぐ3着に入ったのは、当時大いに評価された。

主戦の的場騎手を怪我のために欠きながらも、4歳牡馬がほぼ直線だけの競馬で3着入着を果たしたのだから、評価しない方がおかしいというものだ。

この時点で一介のG3馬に過ぎなかったスピードワールドだが、「孤高の天才マイラー」として同年代のG1馬たちに匹敵するだけの名声を得ていた……といっても過言では無いだろう。

冒頭で記したように、1997年は日本競馬における過渡期。

新たな時代を築き、歴史を塗り替えるようなスターの誕生が望まれていたという状況も、彼の評価をより高める一因だったのではないか。

ところが、同年夏を境にスピードワールドに対する期待は徐々に萎んでいく。生涯唯一の勲章である京成杯のトロフィーを振り回して闘った彼にとっての最大の敵は、あの安田記念の激走によって巨大になり過ぎた自身の虚像だったのかも知れない。

毎日王冠3着を叩いて臨んだマイルチャンピオンシップでは末脚不発で12着惨敗。

以降は脆いひづめに苦しめられる日々が続く。満足な状態での出走すらままならず、多くのレースでは単勝人気順が実際の着順に先行した。爪に優しい柔らかい馬場になると時折好走することも──しかし、ここぞと出走を狙った重賞では賞金不足で除外されることもあり、ローテーションに狂いが生じる事態に度々見舞われた。

同い年のタイキシャトルやシーキングザパール、そして1歳下のエルコンドルパサーやグラスワンダーにアグネスワールドといったマル外のヒーローたちがG1レースで覇を競い、国内外にて自らの名をとどろかせる。そんな中で、「スピードワールド」という金看板は段々とすすけた、古臭いものとなっていったようにすら、私の目には感じられた。

時は下って2000年12月8日、もうすっかり忘れ去られた存在になった7歳馬スピードワールドは、種牡馬入りすべく北海道へと向かった。あの京成杯以後、スピードワールドはとうとう勝ち星を挙げられずじまいであった。

種牡馬としては地方競馬の重賞ウイナーを散発的に送り出すにとどまったが、「元・天才」たるスピードワールドの道行きは決して暗いものでは無さそうに見える。特に、牝馬重賞戦線で活躍したライステラスや、千直競馬では3戦無敗を誇ったエバーローズといった活躍馬を母の父として送り出したのは明るい話題と言えよう。これら2頭の牝馬は共に繁殖入りしており、スピードワールドの名を血統表で見かける機会は今後も少なくないはずである。

新冠のスピードファームにて、功労馬として過ごしている彼は、現役時よりもさらに真っ白になった。

(馬齢表記は旧表記で統一)

引用出典

※1「別冊宝島・競馬名馬&名勝負読本'98」
※2「優駿」1997年3月号

写真:かず、ミッド

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