【競馬タイムトラベル】1999年金鯱賞・ミッドナイトベット

デビュー時の馬体重、438kg。

そこから丸4年国内外で走り続け、引退レースでの馬体重は442kgだった。

彼は基本的に神経質な性格だったというから、その影響もあって目方が増えなかったのかも知れない。

鹿毛の馬体に“社台カラー”の縦縞メンコ。メンコの穴から時折覗かせる目を剥いたような表情は、見る者に彼の神経の鋭さを強く印象付けた。

 

 

その馬の名は、ミッドナイトベット。

米国産のマル外である彼は、生涯で4つの重賞を手中に収めたものの、G1レースには3度挑戦して全て二桁着順に敗れ去った。

大物食いは稀なタイプで、人気薄で好走する機会もあったが、低評価に反発したというよりはキャラクターの地味さ故に人気を集めなかった……といった風情すら感じられた。

 

マル外の割に派手さが無い。それに加えてやたらと“2番目”の多い、どこか慎ましさの感じられる男──私が現役時のミッドナイトベットに抱いた印象は、そんなところだ。

“2番目”というのは、レースにおける着順とか位置取りを意味しているわけでは無い。

それは言い換えれば“2頭目”、もっと揶揄するような意地の悪い言い方をすれば“二番煎じ”となる。

 

要するにミッドナイトベットが成し遂げた大仕事のほぼ全てには、偉大なる先達がいたということだ。

 

 

1994年生まれのミッドナイトベットは、二冠馬サニーブライアンや天皇賞馬メジロブライト、そして“音速の貴公子”サイレンススズカの同期に当たる。

栗東・長浜博之厩舎期待の新馬として、厩舎ゆかりの河内洋騎手を乗せたデビュー戦は1997年1月の京都開催で迎えたが、見せ場無く8着に敗れた。

しかし中2週で出走した折り返しの新馬戦を逃げ切ると、同年6月の函館開催で2勝目を挙げた。

さらには7月の900万下条件戦・津軽海峡特別で3つ目の勝ち星を得るに至る。

ここまで通算して8戦3勝。外国産馬のためクラシック出走への道は閉ざされていたが、頼りがいある先行脚質で着実に結果を積み上げた。

 

秋には準オープン・古都Sとオープン特別のメキシコCを連勝。

これで夏以来3連勝としたミッドナイトベットは、翌1998年正月のG3・京都金杯(当時は芝2000m)へとコマを進める。

父親がスプリンターとして鳴らしたハウスバスター、加えて自身も1800mまでしか勝った実績が無かった。

「2000mの距離には正直言って不安はありました」※1と長浜師も弱気だったが、初めてコンビを組んだオリビエ・ペリエ騎手が直線ポッカリ空いた内を突く好プレーもあって重賞初制覇してみせた。

すると次走のG2・京都記念もペリエ騎手とのコンビでイシノサンデー以下を完封し5連勝達成。

折りからの雨のため良発表ながらも時計の掛かる芝。

逃げたファンドリリヴリアが心房細動を発症して圏外へ消え、4番人気テイエムオオアラシも鞍ずれを起こして3コーナーを前に競走中止するという波乱のレース展開となった。

そんな中、1番人気のミッドナイトベットは直線外へ持ち出し、馬場の良いところをスイスイ走って他馬を抑え込むという、前走とは種類の異なる味なレースぶりで重賞連勝を飾った。

小柄な馬体で荒れ馬場と、2200mの距離をまとめて克服した彼。

春の天皇賞はマル外故にやはり出走不可能だったとは言え、その次の古馬G1・宝塚記念へ可能性を感じさせる勝利だった。

 

 

 

 

 

しかし、この時点のミッドナイトベットが世間的にG1級の評価を得たかと言われると、かなり怪しい。

何よりこの2走は、鞍上のペリエ騎手の好騎乗ばかりが目立ったからだ。

ペリエ騎手による京都金杯と京都記念の連勝は、3年前のワコーチカコ以来2度目。

“2番目の男”というミッドナイトベットの印象は、この辺から形作られたのだろう。

 

やがて彼は本物の“天才”と遭ってしまう。

武豊騎手を背に重賞連勝中の同期サイレンススズカだ。

5月30日、G2・金鯱賞。この日の中京競馬場に伝説が打ち立てられた。

スタートからスピードに任せて馬群をグングン突き放して逃げるサイレンススズカは、道中息も入れずにそのままゴールイン。

4コーナーで外を回して進出し、離れた2着に入ったミッドナイトベットも途方に暮れる強さだった。

武騎手は「今日は、どんな馬が出てきても勝っていた」※2とレース後に語ったが、1分57秒8という破格の勝ち時計と11馬身差という圧倒的な強さが、その言葉を強力に裏付けた。

地道に実績を積み重ねてきたミッドナイトベットにとって、初の挫折と言える2着敗退だった。

 

続くG1・宝塚記念では、関西テレビの杉本清アナウンサーに「私の夢」として指名されたが(もっとも、杉本アナの“指名”の報を戦前耳にした長浜師は「頼むからやめといてくれと、杉本さんに言ってくれ」※3と嫌がったという)、強豪揃いで成す術無く10着に惨敗。勝ったのはサイレンススズカだった。

秋は10月のカシオペアSから始動するもブービーに敗れ、ミッドナイトベットの勢いは完全に止まったように見えた。

 

カシオペアSから1週間後の天皇賞(秋)、このレースで“音速の貴公子”サイレンススズカは不幸にも戦死した。

一方のミッドナイトベットは12月の国際G2・香港国際C(現在の香港カップ)を視野に調整開始。

その前年、サイレンススズカが初めて武豊騎手を乗せるも、未完成な逃げで5着に敗れたあのレースである。

ひと叩きの効果で抜群に馬体が締まったミッドナイトベットは、香港・シャティン競馬場の舞台において「午夜博彩」の名で主役を演じた。

結果、12番人気ながら道中の不利もなんのそのの強さを見せ、1分46秒9のコースレコードで完封勝利。

鞍上はサイレンススズカの背中も知る河内洋騎手だった。日本調教馬による同G2制覇は、1995年のフジヤマケンザン以来2頭目。“2番目の男”伝説はここでも生きていた。

 

こうして1着賞金406万香港ドル(当時のレートで6700万円)をつかみ取り、国際重賞ウイナーとなったミッドナイトベットだが、彼が香港で成し遂げた快挙を讃える声はあまり大きくなかった。

1998年と言えば、シーキングザパールとタイキシャトルが揃って海外G1制覇を成し遂げた記念すべき年。

そんな年の暮れに国際G2を勝ったミッドナイトベットへの注目度が上がらないのも納得出来る。いかにも間が悪かったのだ。

低評価を覆すためにはまず国内G1制覇……あわよくばあのサイレンススズカ超えを名実共に目指したかったが、翌1999年春はマイラーズC、産経大阪杯から始動し、両G2を続けて敗戦。

やや評価を下げた状態で、彼はG2・金鯱賞へと再び挑戦した。

 

ポートブライアンズと1番人気のサイレントハンターが競って逃げる展開を、対抗評価のミッドナイトベットは道中5番手で無理なく追走した。

淡々とした流れを制し、3コーナーにてサイレントハンターが一気に仕掛けて単独で先頭に立つ。

一方、同じようなタイミングで外から仕掛けた河内騎手とミッドナイトベットも手応えは抜群だ。

 

直線に至るとサイレントハンターが粘り込みを図ったが、残り200m地点で「手応えの良さから判断して、自分から捉えに行った(河内騎手:談)」※4ミッドナイトベットが交わし切る。

スエヒロコマンダーやステイゴールドもじわりと差を詰め、最後はスエヒロコマンダーとの追い比べとなったが、クビ差振り切ってミッドナイトベットが優勝。昨年の雪辱を果たす形となった。

 

勝ち時計1分59秒7は、前年2着時の走破時計よりも0秒1遅いタイム。

計算上は、もしサイレンススズカが出走していたら前年同様にぶっちぎられていたことになる。もちろん、馬場状態も多少違うので一概には比べられないが。

思えば、サイレンススズカとミッドナイトベットがそれぞれ新馬戦で2着に下した相手は同じパルスビート。

そして前者が2着に付けた差は7馬身で、後者は1馬身差だった。

国内で伝説を築いた“天才”と、世界に名を売った“秀才”、それぞれ苦悩はあった。

ちなみに「香港国際C制覇の翌年に金鯱賞を勝つ」パターンはフジヤマケンザンも同様であり、これも“2頭目の快挙”と呼べた。

 

 

 

 

だが、雪辱を果たした金鯱賞が結果的にミッドナイトベットの最後の輝きとなった。

次走のG2・鳴尾記念で1番人気の支持を得た彼だったが、極めつけの荒れ馬場も影響したか勝負所で大きく後退し、屈辱のシンガリ負け。

この惨敗で緊張の糸が切れたのか、堅実だったはずのミッドナイトベットは一転して長い低迷期に入る。

引退まで泥沼の16連敗。その間掲示板に載ったのも2000年5月の高崎・群馬記念(交流G3)での5着のみと不振を極めた。

この頃には、持ち前のギロリと目を剥く表情も影を潜めるようになっていた。

最晩年には美浦の小島太厩舎に転厩し再起を図ったが、結局蘇ることは無く、8歳馬となった2001年2月の調教中に骨折を発症。

ほどなく引退が決まった。引退後は社台スタリオンステーションでの種牡馬入りが発表されたが、後に同系列の白老ファームへと居を移したとされる。

 

現役時に“2番目の男”の配役を全うしたミッドナイトベットが、正真正銘の一番星として輝く機会は、引退後に訪れた。

正確に言うと彼自身では無く、彼の産駒の1頭が、父の恩人が営む厩舎の一番星として輝くに至ったわけだが。

種牡馬として全く人気が無かったミッドナイトベットが残した産駒は9頭のみである。

中でも初年度産駒は僅か1頭。その1頭であるミッドナイトトークが2005年4月、河内洋調教師に厩舎初勝利をプレゼントし、一部で話題を呼んだ。

河内師と言えば、ミッドナイトベットの全35戦中20戦で手綱を取った大事なパートナー。

そんな河内師への恩返しがいの一番に叶ったことは、種牡馬ミッドナイトベットにとってこの上ない誇り、そして生涯における最高の御奉公と言えるのかも知れない。

(馬齢表記は旧表記で統一)

 

※1「優駿」1998年3月号

※2「優駿」1998年7月号

※3「これが夢に見た栄光のゴールだ」杉本清

 

※4「優駿」1999年7月号